あっという間に1月も月末です・・・。
2月になったら、もう少し暖かくなったらいいですね。
今日は、「言葉の力」について書きたいと思います。
僕は10代後半で大切な人を亡くしましたが、その死を現実に理解するようになるまでに、約3年くらいかかったように思います。それまでは、先も底も見えぬ暗闇をもがき苦しんでいたように思います・・・。
3年過ぎたある日、今まで死別の事実を受け入れていない自分がいたこと、「その人がこの世にもう存在しないこと」に気付きました。
それから、死別に関する本を読みあさり、少しずつ自分の気持ちに向うことができたように思います。
そしてある本で、以下の言葉に出会いました。
「肝心なのは、人生が何をもたらすかではなく、人生がもたらすものをどうするかだ。(エドガー・ジャクソン)」
【死別の悲しみに向き合う】より引用
それまで僕は、自分に降りかかった出来事の不条理さを嘆き、この世に生きる自分に対して、「苦しみと憎しみ」しか見い出せなかった。
だから、「人生がもたらすものをどうするか」という言葉は、僕にそれでも今を生き抜く「勇気」をくれました。
もちろん、この言葉はある程度の時間が経ち、死別に向き合うようになった時だからこそ、救われた言葉だったように思っています。
これを書くと、僕が死別を前向きにずっと捉えていると受けとられるかもしれません。
でも、実際はそんな簡単なものではないんですよね・・・。
もちろん、死別の苦しみにもがき続けていた時のように、死別のことで日常生活に支障があるということはありません。
ただ、「死別を前向きに捉えられない時もある」ということ、それが真実のように思います。
死別を前向きに捉えて頑張ろうと思い過ぎた時は、↑で書いた「人生がもたらすものをどうするか」という言葉が、逆にしんどく感じて仕方がありませんでした。
そんな時、今度はあるテレビドラマで
「神は乗り越えられる試練 しか与えない」
という言葉を耳にしました。
僕は特定の宗教を信仰しているわけではないので、神が存在するかどうかは分かりません。
ただ、「乗り越えられる試練しか与えない」という言葉に、僕は救われた気持ちになり、何か肩の荷が下りたように感じました。
そして、月日が過ぎ、今こうして、会でスタッフをしながら、ブログにコメントを書いている・・・そう考えると考え深いものがあるなと思う今日この頃です。
(緑)