珈琲のかおり

珈琲を入れる

父の好物は何だっただろうか?
食にうるさい人ではなかった。
好き嫌いはあまりなく、煩わしい注文も少なかった。

父が居るときに指令がくだるものと言えば珈琲。
イギリス人は一日にあきれるくらい紅茶を飲むが、父はあきれるくらい珈琲を飲んだ。
朝起きて珈琲、午後10時に珈琲、お昼の後に珈琲、三時のおやつに珈琲、夕方に珈琲、寝る前に珈琲。

 

私が小学生くらいの昭和な時代には、ペーパーフィルターや電動ミルなどという便利なものはなく、自宅にはガラス製のサイフォンと、木製の重い手動のミルがあった。
ガラス瓶に「ブルーマウンテン」「モカ」「キリマンジャロ」と書かれた褐色のつぶつぶ。

蓋をひらくとふわぁりと、大人な香りがした。

珈琲豆をミルで挽くのが私の仕事となる。
コーヒー豆を入れ、まあるい球状のハンドルがついたミルをくるくる回す。
重い。
小学生の私にはあまりに重い。

ごりごりごり
一休み。
ごりごりごり
一休み。
しばらく続けると、からーんと、回るハンドルが軽くなる。
豆が粉になる瞬間。

ガラスのサイフォンに豆をセットし、アルコールランプに火を点す。
しばらくすると、ごぼごぼごぼっと音をたて、水はお湯になり、ガラスのサイフォンの上方に吸い上げられてゆく。
珈琲の粉とお湯が混ざり合い、すぅっと褐色の液体が下に流れ落ちてくる。
部屋にあふれる深い珈琲のかおり。

子どもの目には科学の実験みたいで、この週末の儀式は楽しいものだった。
もちろん、回数が少なければのお話。(笑)

あるときから智慧をつけた私は、この儀式がめんどうだなと感じるとき「やっぱり、私が入れるよりお父さんが入れた方が美味しいんだよねぇ。今日はお父さんが入れたのが飲みたい!」
と言ってみることにした。

すると、「そうかぁ?」と言って、鼻をふくらませつつ、父は喜々として自分で珈琲を入れ始める。
自分の希望を通したいとき、男性は褒めて動かすに限る。
それを教えてくれたのも父であった。(笑)

最近は200円程度で手軽に珈琲が飲める時代になった。
多少焦げ臭い香りの格安珈琲を一口飲んで「あー、ここもオレの好きな味じゃない。」と顔をしかめていた父が懐かしい。
父好みの珈琲を入れるお店は少なくなったものね。

 

父が亡くなってから、我が家では珈琲を入れる機会はめっきりと減りました。

母などは「インスタントならあるわよ!自分で勝手に入れて!」とのたまう。

いやいや、インスタント珈琲飲むくらいなら、飲まない方がいいから。

 

父はどれだけ自分が愛されていたかわかっているのだろうか?

あの世で感謝してもらいたい。


(水浅葱)