2011年

12月

18日

グランマさんのごちそう!

先日、分かち合いの会のスタッフフォロー研修の後、
忘年会がありました。
いつものように我が会のグランマさんお手製のごちそうが!!

鳥と栗の煮物
鳥と栗の煮物
煮物と混ぜご飯

煮物と混ぜご飯

春雨サラダ
春雨サラダ
ミルフィーユ風白菜漬物(勝手に命名しました)
ミルフィーユ風白菜漬物(勝手に命名しました)

本当にどれもおいしくあつかましくも「バクバク」いただきました(笑)
 
私のお気に入りは一番目の写真の鳥と栗の煮物です。
鳥が栗と一緒になるなんて!
ぽくぽく感と鳥の旨みとが甘辛く仕上がってて初めていただくお味でした。
 
いや~胃袋を味方につけるって本当に大事ですね。
日々の家族のごはん作りにちょっと反省いたしました。
私はお料理も仕事と同じ延長で、
家に帰ったら「やらなければいけないもの」と思っていて、
楽しんだり、まめに工夫したり、という感に欠けています。
だからグランマさんのようにお料理を日々楽しんで極めていける女性がうらやましいです。

一度ちゃんとお料理の基礎を習ってみたいものです。
あ、のん兵衛になれれば、
おいしいもの作りを極められるかもしれませんね。

ごちそうさまでした!

(ピンク)

2011年

12月

02日

空気のような存在

最近は関東もすっかり冬めいてきて、朝晩は寒いですね。

今月は、至る所で「あっという間にまた一年過ぎてしまった」「どんな一年でしたか?」といった言葉が聞かれるのでしょうね。

皆さんは冬や12月と言えば何をイメージしますか?

この時期のテレビのコマーシャルはクリスマス仕様ですね。

僕にとってのクリスマス・・・

「何気ない日常」「空気のような存在」「止まったままの時間」

僕がここにいて、相手が隣にいる。

ソファーで横になる自分 

そして台所で調理をする相手 

そんなある日の光の射す何気ない午後の日常、僕はふとこれが「空気のような存在」なのかなって感じたことがありました。

そして、家族とは「帰る場所があること」、そこに「愛する相手が待っている」ことなのかなって・・・。

周りは20代前半でそんなことを思ったと言ったとしても、まだ青いと思うかもしれませんね。

でも、自分の中で「空気のような感覚」を感じられたことに暖かい気持ちになった記憶は今も忘れることができません。

                                         (緑)

2011年

11月

26日

開かずの手帳

あの記録的な暑さから一転、東京はすっかり秋めいてきました。

皆さん、風邪などひかれていませんか。


私は北国育ちなので
涼しくなってきた東京が大好き!

空気が澄んだ高い水色の空や
色が変わって落ちていく葉っぱ、
だんだんと冷たくなっていく乾いた風に一人わくわくしています。


来年2012年の手帳も買いました。
早速、現段階で決まっているわずかながらの予定と
大切な記念日などを書き込みました。


自分の手帳を買い替える度に、
私は亡くなった母の手帳を思い出します。

それまで持ち歩く習慣などなかった母が
「通院の管理に使いたいから」と、
手帳を買い求めたのは晩年のこと。

二人で駅前のデパートへ行き、
赤いカバーの手帳を一緒に選びました。


けれどそれから9ヶ月後、
手帳を使い終えることのないまま、母は亡くなります。

 

お葬式が終わり、母の使っていた物を整理している中で
あの赤い手帳が目に止まりました。


好奇心もあり、いけないと思いながらもパラパラと読んでみると…
アドレス帳には、私たち家族の緊急連絡先と
病院で知り合った闘病仲間の連絡先だけが、選び取ったように綴られていました。


1月から始まるカレンダーには、通院の予定と記録。
抗がん剤をどれだけ打ったか、腫瘍マーカの検査値と、それに対する一喜一憂が
達筆だった母の字で書いてありました。


通院記録にまじって
私たち家族のこともぽつりぽつりと記されています。


母が迎えた最期のお正月には
私と弟が大喧嘩をしたことが書かれ
その下には「お腹痛くなる」とありました。


母のがんは、直腸が最初でした。
以来、何か辛いことがあるとお腹が痛くなっていたのです。

そのことをよく知っていながら、
当時の私は、母の目の前で弟に怒りをぶつけたのでした。


離れて暮らしていた父が帰宅した日には
「泣きそうになるが、こらえる」の文字。


意識レベルがゼロになる8月まで、ぽつぽつと書かれたそれらの記録は
次第に筆圧が弱く、たどたどしくなり
習字の有段者だった母の文字とは思えぬほどに変形していきました。


お葬式が終わってすぐ手にして以来
私は一度もその手帳を開いたことはありません。

開くことのできないまま、お仏壇の引き出しにしまってあります。


開くときっと心が揺れてしまうから、
今後もしばらくは開かずのままでしょう。


たくさんの人に遠慮して、何も言えなくなってしまった母の、唯一の本音が綴られた手帳。


たとえ開かなくとも、一文字一句脳裏に焼き付き、忘れることのできないままです。


(オレンジ)

2011年

11月

19日

儀式

12日は、本会主催のメモリアルサービスの日でした。

本会でのメモリアルサービスは
死別時期・対象者を問わず、信仰を問わず
死別を経験した方が、
亡くなった大切な方を偲ぶ行事です。

日常から離れ
亡くなった大切な方との思い出の時間にしていただきたい、と毎年行ってきました。


残念ながら私は今年参加できなかったのですが
担当スタッフ(朱鷺色さん)によると、とても良い雰囲気だったとのこと。


「笑いあり、涙あり、共感あり、感謝あり、喜びまであり、
  時には音楽の調べに乗って
  亡き人との時間を過せるように……」。


このように、気持ちを見つめるきっかけは、
とても意味があるように思います。


日本では古来から、多くの通過儀礼や式典・儀式を経て
人間が成長し、生活してきました。

お宮参り、七五三、成人式などの通過儀礼。
結納、結婚式、葬儀などの儀式。

古くは元服など、本や大河ドラマなどでしか知らないものもあり
想像することしかできませんが、
その多くは、覚悟を決め、過去の自分から脱皮するための大切なきっかけではないでしょうか。


現代の子どもにとっても
入学式や始業式、卒業式などの式典がなければ、
成長過程での覚悟は違ってくるように思います。


けれどそういった形式ばったものは時代とともに変化し
随分と簡略化されてきているのかもしれません。

不景気もあるでしょうが、
結婚式もお葬式も、低料金のパックが流行っていると聞きます。

もっともこれは日本だけでなく世界的な徴候のようです。
代わりに、自分だけの◯◯記念日など、個人で大切にされている方も多いですね。


長い歴史で見ていくと
徐々に新しい形式へと変化していく文化の転換期なのかもしれません。

 

私にとっての儀式は、というと……
葬儀には後悔ばかりがつきまといます。

経済的な事情から、十分な治療を受けることなく他界した母。
死別当時私はいい年の社会人でしたが、
親族の香典に頼らなければ何一つ動かせないほど、我が家にはお金がありませんでした。

家中の小銭を必死にかき集めて
市内で一番安い葬儀場の、4畳半の部屋を何とか借りました。
普段は、お坊さんの控え室に使っている部屋だそうです。


先祖代々信仰していた宗派はあるものの
我が家にはお坊さんを呼ぶお金もなく
法名を付けることもできませんでした。

友人も多く、明るかった母ですが
小さな部屋には入れる人数も限られます。
ましてや、来ていただいたところでお返しもできません。
身内だけで、小さな小さな葬儀を行いました。


母の最期を、こんなにも小さな部屋で寂しく行わなければならないだなんて
情けなくて情けなくて、胸が痛みました。
その一方で、葬儀の最中もお金の心配がちらつき
母の死について、覚悟したりけじめを付ける余裕など、なかったようにも思います。


もちろん、お金を掛けるだけが良い訳ではないし
お坊さんを呼んだから、派手なお葬式だから良いとは決して思いませんが
自分の治療費の心配ばかりして亡くなった母に、
せめて最期くらい、わびしい想いをさせたくなかったのです。


もしもあの時、もう少し満足なお別れができていたのなら、
死別直後の私の自責が薄らいだのではないか……
そう思うほどに、母の葬儀は私を苦しめました。

 


亡くなって二年後、ようやくお墓とお仏壇を購入し
お坊さんにお経をあげてもらい、法名をいただくことができた時、
張りつめていた緊張の糸が切れたかのように、
ホッとしたのを覚えています。


「早くお墓を、お仏壇を買わないと」
「法名も付けないで、成仏できない」
そういった慣習に、脅迫的に捕らわれてもいたのでしょう。

 


儀式とは、覚悟をきめること。
過去に区切りをつけ、新たな自分へ踏み出すきっかけ。


後悔ばかりの儀式を経験したからこそ
その意味を、大切さを、改めて思い知りました。


(オレンジ)

2011年

11月

10日

幸福行きの切符

思い出の品といえば、祖父からもらった切符があります。

 

祖父といえば・・・行くといつも寝てる祖父、祖母におこられてばかりの祖父で、関わりはほとんどありませんでした。ブラジル移民を夢見たもののやめちゃったとか、いつも酔っぱらっているとか、どちらかといえば子供心にもなさけなく映った祖父の姿。

 

そんなわけで、20年以上前になる葬儀の時も、特段の感情もなく受付やらを手伝って終了。それ以来あまり思い出すこともありませんでした。

 

が最近、祖父からもらった「愛国から幸福行き」の切符がひょっこり出てきました。

年季の入ったキーホルダーに入った幸福行きの切符。

 

どのタイミングでもらったのだろう?全く記憶にありません。

貝殻やら石やら置物を持ち帰っては祖母にしかられてたなぁ。私の石を持って帰るくせは祖父からのDNAだったか?!芹洋子*のファンだったのか?はたして幸福にたどり着けたんだろうか、・・・いろいろと思いがめぐります。

 

どんな風にくれたのか、そもそもどうしてこの切符を手に入れたのか、謎ですが、

この切符にひかれた祖父がなんとなく身近に感じられて、もっといろいろ話しておけばよかったなぁと感じました。(青)

 

↓出て来た切符 

幸福の切符
*「愛の国から幸福へ」という歌を歌った歌手です。

2011年

11月

05日

思い出の品

母の7回忌に合わせるように今年はいろいろなことが起こります。 

引越しもその一つ。


そのままにしてあった母の思い出の品々を見ることになり、あぁこんな楽しいこともあったんだよなと思えたり、キューっと心をつかまれるように悲しくなったり・・・。いずれにしても、涙がこぼれてしまいます。


そんな生活を送っているせいか、ドリカムの「ねぇ」という曲がどうにも最近気になります。


「どのポケットも思い出で一杯の その服にあえて手を通そうよ  

もう一度来てみたら 案外似合わないことに気づくかもしれない

 

どのポケットも思い出で一杯の その服を今日は脱いでみようよ  

もしかして思うより 案外平気なことに気づくかもしれない


どのポケットも思い出で一杯の その服にあえて手を通そうよ  

どのポケットもあなたの愛が一緒に詰まってたことに気づきなさい


どのポケットも思い出で一杯の その服をもう脱いでみようよ  

どの思い出もあなたの愛と一緒だから大丈夫  逝かせてあげなさい」


ずっとしまってきた母の服でしたが 出して着てみようかとタンスに入れてみました。


本当に着られるかどうかはまだわかりませんが、沢山の母の服を目の前にして、一緒の思い出はたくさんあったんだということを、かみしめたいと思いました。青

2011年

10月

22日

からすうり

 からすうりの花をご存知ですか?

 

からすうり
からすうり

まるでレースのようで素敵でしょう?

7月8月の夜に咲きます。今年はいつまでも暑かったのでつい2,3日前まで咲いていました。

もう実が色づいているのに・・・・・・・。

種がまた可愛らしいのです。

結び文のようで「玉梓(たまずさ)」とも言われるようです。

秋のドライブの楽しみの一つに、このからすうりを見つけて採ることがあります。

郊外は空気がいいのか真っ赤に色づきます。

我が家に実るからすうりは残念ながら真っ赤にはなりません。

 

小学校の運動会の徒競走の時、からすうりの実を割って、足に擦り付けるとスースーとして、早く走れる!なーんて言われて

近くの池上本門寺に採りに行きました。


でもやっぱりびりでした。


                      朱鷺色

2011年

10月

13日

メモリアルサービスのお知らせ

メモリアルサービスのお知らせ
 
メモリアルサービス」、それは大切な亡き人を「追憶」すること、生死の境を越えて、絆を深めること。3月11日に起きた、東日本大震災により被災された皆さまにお見舞いを申し上げ、被災地の一日も早い復興を心よりお祈り申しあげます。この未曾有の災害によって亡くなられた方々の追悼も含めて、今年の第22回メモリアルサービスを行ないます。

日時:2011年11月12日(土)14:00~17:00

内容:13:30 受付開始
 14:00~15:30 祈りと追悼
~ パンフルートの響きとともに ~

お話:立野 泰博 氏(日本ルーテル教会牧師)
演奏:中村 純 氏 (広島大学教授)
15:45~17:00 茶話会

場所:真生会館4F 新宿区信濃町33-4
申込方法:電話、ファックス、郵便、メールにて、住所・氏名・連絡先を下記、
生と死を考える会までご連絡ください  



申込締切:11月8日(火)定員:50名 


参 加 費:会員・学生2,000円 一般2,500円
(当日受付にてお支払い下さい)  
               
主催:NPO法人・生と死を考える会   
〒160-0016 東京都新宿区信濃町33-4 真生会館ビル3F 
TEL:03-5361-8719(火・金13:00~17:00
FAX:03-5361-8792 
メール:koenkai@seitosi.org  
ホームページ:http://www.seitosi.org
 
 
                                              朱鷺色

オリーブの木で作られた パンフルート
オリーブの木で作られた パンフルート

2011年

10月

10日

会報

私には、最近では分かち合いに参加する事がなくなった友人がいます。


数年前、私と同じ時期に分かち合いに参加したのがご縁で、親しくなりました。


お互いに同じ時期に、大切な人との死別を経験し、一番辛くて苦しかった頃の会からの帰り道、お互いを励まし合った戦友のような仲間です。


今でも会員としてとどまり、会報を通じて会の活動を知ってくれています。


「会報が届くのが楽しみで、読んでいます。会報を通じて会と繋がっているのだと思う。」と言ってくれて嬉しかったです。


会に参加をしなくなっても、会報には人と人とを結ぶ大切な役割を持っているのだと改めて実感し、私もその繋がりを大事にしていきたいと思います。


会報の編集に携わる方々に感謝しながら、次回の会報を楽しみにしている私です。


(赤)

2011年

10月

01日

個展

先日、妹の個展を見に行って来ました。

 

 

もともと、美大を卒業してから、たまに趣味で油絵を描く程度だったのに、母を亡くしてからの妹は、あたかも喪失感や心の痛みなど、沸き上がる感情を必死にキャンバスにぶつけていたかの様でした。


描く事で、自分の心と対話をしていたのかも知れません。


今、思い返せば死別直後に描いた妹の絵は、どこまでも広がる暗黒の闇の様に、どす黒くて深い悲嘆を感じさせる作品ばかりでした。


それがやっと、時間の経過とともに、明るい色彩が加わり、作品にも少しずつですが変化がみられました。


画廊をあとにしながら感じた事は、姉妹でも悲しみとの向き合い方は、それぞれに違うという事です。


でも、妹が絵を描く事によって、死別の悲しみと向き合った様に、私も分かち合いで向き合う機会をたくさん持ち、案外根っこは一緒かなーって思えてきました。


分かち合いと出会えた事に感謝しながら、毎日を丁寧に生きていきたいと思います。

(赤)

2011年

9月

19日

「ああ、やっぱり」

 

夢から覚めて、今朝私はそう思った。

夢の中で、自分の夫が昨日死んだんだと友人から教えられた。

でも跡形も何もなかった。

 

しばらくは、友人たちの中でいつもどうりに過ごしていた。

でも、10分、20分と経つにつれ、

どんどん闇のような巨大なものに飲み込まれそうになり、

その場にいられなくなり、

フラフラしながら友人たちから離れた。

 

離れてそこの空間にあったものは、波のように襲ってくる闇。

 

「え?さっきまでいたよね?」

と思いながら、必死に状況整理しようとしていたが、

その襲われる闇の感覚に耐えられなくなり私は走り出した。



そして目が覚めた。

 

昨日親しい友人から、昔の知人が昨年自死していたことを知らされた。

たぶん、その影響で夢を見たのだろう。

 

でも、夢の中の打ち寄せるような、

自分の前だけでなく後ろにも広がる黒い闇の感覚だけは、

私が昔から知っているものだった。

それが妙に同じで気持ち悪くて、目覚めても身体と心が動かなかった。



先日、私は自分が分かち合いのなかで、

子どものころから見ていた死んだ父親の夢の意味を初めて気づかされた。

こんなに経っていてもである。

 

それは、家族内でも、友人にも、周りの大人や先生にも、誰一人として、

絶対に泣く事を許されなかった孤独な私にとっては、

夢から覚めて吐き出したように自然に泣くことが、

私には「癒し」だったり「慰め」だったんだのかもしれない。

だからそれに救われていたのかもしれない。

そう、もっと早く思えていたらもっと楽になっていたかもしれない。

 

いや、

違う。

 

分かち合いの中で、今でもこうやって改めて気づかされることがあることは、

私にとってはとてもラッキーなことで、

そう、

そういう気づきに今でも救われているのだと思う。



ピンク

2011年

9月

06日

夏の宝物

もうだいぶ朝晩は涼しくなりましたが、それでも9月でこの暑さは、
厳しいものがありますね。
 
まだ暑い盛りのお盆のころ、
私は毎日うだるような暑さにかなり参ってました。
こどもの頃から夏は食べられなくなり、もう梅雨明けの段階で夏ばてしてしまうのです。


今年もそんな中、毎日行く犬の散歩道で見つけた宝物。

いや~
こんな貴重な瞬間に出会えるなんて奇跡的です!
これでも夜の22時頃なんです。
 
すごくないですか~??

こんな緑色の透き通った色を見るのはなかなかない!
 
子どものころの夏休みは、毎年、福島県相馬の母の実家に、よくホームステイさせられていました。
朝早く起きて、いとことセミやらカブトムシやらを見つけによく行ったもんです。
それでもこんな身近に見れることなんてそうないことでした。




この散歩道の神田川沿いには、その時
ちょっと歩けば、もう命尽きたセミがいっぱい落ちてたんです。
片や今飛び立とうとする命と正反対に。
 
儚い命だと思うからこそ、
その小さな身体のセミを、毎年応援せずにはいられません。



ピンク

2011年

8月

06日

記念日

オレンジです、こんにちは。

先日誕生日を迎え、一つ年齢を重ねました。
私のような、三十路を過ぎた女性の多くは
その日を迎えること自体嬉しくないかもしれません。
でも私にとって誕生日とは、今は亡き母が命を懸けて私を産んでくれた日です。

母から私を出産した時の話を聞くのが好きでした。
少し照れ臭かったけれど、
「私は確かに愛されていたのだ」と実感できました。

母の死後、私にとって誕生日は
親子の絆を最も感じられる日になりました。
大切なたいせつな記念日に生まれ変わったような気がします。


「生きてるだけで丸儲け」などと口にするほどには
まだまだ前向きになれないけれど
今ある日常に感謝しながら
大切に丁寧に、自分の命とじっくり向き合っていきたいと思います。

 


(オレンジ)

2011年

7月

29日

銀河鉄道の夜

先日サイコドラマというワークショップに参加しました

私が体験したのは自分の印象に残った映画の一場面を演じる「思い出シアター」

 

記憶に浮かび上がってきたのは、昔家族で見に行った

銀河鉄道の夜。登場人物がなぜか猫なのですが、群青を基調とした

幻想的で美しいアニメ映画でした。

子ども心に、もの哀しさと怖さを少し感じたのを覚えています。

 

私が選んだ場面は、銀河鉄道で旅してきたカンパネルラとジョバンニが

別れてしまう場面です。2人きりになってもずっと一緒に旅していこうと言う

ジョバンニを残し、カンパネルラが突然いなくなってしまいます。

カンパネルラは逝ってしまう。

 

ジョバンニには理解できず、声を振り絞って叫びます。

「カンパネルラーーッ!!!!!」

 

この場面を演じたとき、「あぁこれだ」という思いと一緒に

涙があふれ出してきました。大切な人と病室で別れた場面。

そっと封印して、家族も自分も誰も触れなかった記憶。

 

演じ終えてみると、ジョバンニと共に体験した銀河鉄道の旅路=

生から死への旅と別れは、子どもの頃とはまた違ったように感じられました。

もの哀しさは変わりませんが、怖さが不思議とないのです。そして何か

解放されたような気がしました。

 

この映画を一緒に見ていた頃、家族が全員いたあの頃に戻りたいと願いつつも、

子ども時代の私に向かって今言いたいのは、「怖くはないし、大丈夫だ」ということ。

絶叫していた自分に向かって言いたいのは、「恥ずかしくないし、それでいい」ということ。

 

不思議な体験でした(青)

2011年

7月

21日

自分の悲しみを悲しむ

夏がやってきました。夏と言えばひまわり。

朝の連続テレビもひまわりですね・・・強引な展開。汗(^_^;)。

今週のとある場面を見ていて、ぐっときました。

 

それは主役の祖母が主役の友人に話をするシーン。

二人とも東京で空襲を受けて、主役のいる安曇野に戻ってきています。

 

東京で大変な目にあったね、と声をかけられた友人はこういいます。

「私はたいしたことない。もっと大変な目にあった人がいるのだから。」

 

おばあさんはこんな言葉をかけます。

「それは違う。あなたはつらい目にあったし悲しい思いをした。

それは本当に大変だった。あなたはあなたの悲しみを悲しんでいいの。」

 

思い返せば大切な人を亡くしたとき、、私は、まだましなんだから

がんばらくちゃと思う自分と、一番不幸だと思う自分との間で

行ったり来たりしていたような気がします。

 

それは震災でも起きていて、

「被災地の人たちに比べたら、●●はたいしたことない」

そうやって日本全体がつながろうとがんばっているかもしれない。

 

でも大切なことは本当はシンプルで、ただただ自分の悲しみを悲しむ、

でいいんですよね。それが自分を大切にすることなのかもしれない。

 

そして相手にも同じことを許すこと。

私は身近な人にそれを許せませんでした。

自分と同じように悲しむことを強いていた。

 

とても難しいことだけど、つながりはそこから始まってくるような気がして、

分かち合いもそんな場所なんじゃないかな・・・、

そんなことをつらつら思った朝でした。

 

(青)

2011年

7月

19日

6度目の夏

「生と死を考える会」と出会い、ご縁ができて6度目の夏を迎えました。

 


大切な人を喪い、その深い悲しみと自責の思いに、もがき苦しみ泣き狂っていた私は、藁をも掴む思いで、この「生と死を考える会」に辿り着き、分かち合いに参加する様になりました。

 


死別から2ヶ月目の事でした…。

 

 

分かち合いに参加してみると、立場や死別の背景など、それぞれに異なりますが、これまでの辛さや悲しい思いなどを語り、分かち合う事の出来る場所が、そこにはありました

 


死別と向き合う中で、時には自分では抱えきれないほどの辛さや、生きづらさにぶつかった時に、その苦しさを分かち合いに参加する事によって、吐き出せた事が本当に有難い事でした。


そして、「会」を通じて、かけがえのない出会いとご縁を頂き感謝しています。


本会の分かち合いの会は、いつでもどんな時でも、変わらずに定期的に開催しています。


参加者の心に寄り添い、心の重荷を安心して降ろせる場所であり続けたい…と願っています。

(赤)

2011年

7月

09日

気づき。

先日、あるライブがご縁で、石巻のご夫婦と知り合いになる機会がありました。


震災から4ヶ月が経とうとしているのに、震災直後となんら変わらずに、瓦礫の山を見ながら、不自由な生活を余儀なくされている現実。


支援の手も、届いている地域とそうではない地域との格差や、これからの生活の不安など、話しを聞けば聞くほど、想像を超えた現実問題に、言葉が見つかりませんでした。


ただでさえ、精神的にも肉体的にも、限界を通り越していると思うのに、ただ、ただ、辛い胸のうちを聞く事しか、今の私には出来ませんでした。


あたりまえにしていた一つ一つが、本当はあたりまえではなかった事に、痛いほど気づかされた、大切な人を喪ったあの日…。


もう二度と、あのかけがえのない、あたりまえの日々を取り戻す事は出来ないけれど、今、出来る事を今、やらなければ、と気づかせてくれた、意味のある大切な出会いでした。


(赤)

2011年

6月

24日

父の日に寄せて

先週の日曜日は父の日でしたね。

 

父の日に何かしたおぼえがありません。ウイスキーをプレゼントしたことがあるかなー。

 

家族に対しては難しい顔をしていました。

 

よその人にはニコニコとして、いろいろなことについての話題が豊富で博識でした。

 

思い出すことは、お玄関の格子のガラス戸を丁寧に、雑巾や刷毛で洗っていたこと。

 

庭掃除、紫蘭(シラン)や玉すだれの株分けをしていた後姿。

 

『かがみこみて 株分けをする 父の背を 思い出しおり 玉すだれの花』

 

葬儀の時使った写真を見て「おじちゃんに似てるね!」と言われて、えーっつと思ったのですがうれしかったこと。

 

出来上がったおかずを小鉢によそって自分の部屋に持って行き、机に向かって本を読みながら水割りを1,2杯。

 

子どもはだーれも褒めなかったのに、夫が「いい酒飲みだなー」と言ってくれました。

 

ある時酔っていた父が、私の仲良しに「ひどいこと」を言いました。

 

どのくらいの間だったでしょうか、父に心を閉ざしてしまっていた時、兄が「親父が謝ればいいか?」と聞いてきま

 

した。

 

父に謝ってもらいたい、と考えていたわけではなかったのですが、腹も立っていたし、仲良しに申しわけないし、

 

悲しかったのです。

 

その兄の一言で、いさかいや、トラブルや、喧嘩がその相手と決着するのではなく、自分自身の問題として1人で

 

考えて考えて考えあぐねて、胸の思いを何とか落ちつかせることができました。

 

忘れられない、私の人生の出来事です。

 

お父さん、私もまだまだ、一生懸命生きていますよ。

 

             父の日に寄せて    朱鷺色

2011年

6月

10日

始めまして、朱鷺色です。

始めましてニューフェイスの「朱鷺色」です。

 

幼いころ姉と私の三尺帯がふわふわの薄絹でできていて色の美しさと、ふわふわの触感に2本を身にまとって踊るとまるで天女になった気持ちになりました。

 

その三尺帯の色が「とき色」、絶滅寸前の鳥「朱鷺」のいろです。

 

若い世代の方々がスタートさせてくださった、このブログなのですが私はちょっと(?)年長!

 

とはいえ、「二十歳過ぎたら同い年」と常々思っているので、みずみずしい感性を保てますように心がけて参加させていただきます。

 

あじさい、立ち葵の花が行く道を彩ってくれる季節ですね。

 

神戸在住であった大好きな兄を訪ねたとき、塀越しに咲いていたあじさいの花房の大きさに驚きました。

今観ている花の5,6倍はありそうな大きさでした。

 

もともと好きな花の一つでしたが、兄がなくなった今、あじさいを観るとあの時の兄を想い、それからそれへと兄を想うひと時が過せます。

 

立ち葵はすぐ上の兄嫁が大好きでした。あまり仲がよくなかったのですが、この時季みるたびに「洋子さんきれいね」と話しかけている自分に気がつきます。

 

心友に、私も思い出してもらおうと花の名前を言い出したら「ありすぎ!」と止められました。

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

                               朱鷺色

 

2011年

5月

28日

同じこと

(仙台市荒浜地区 4月12日)
(仙台市荒浜地区 4月12日)

そこはがれきと砂の砂漠でした。

4月の仙台は風がとても強く、

津波で上がった様々なものを陸へ陸へと運んでいるようでした。



東日本大震災で被害に遭われた方々へ謹んでお見舞い申し上げます。

 

被災者の方々のその深い悲しみは私達には想像することさえも困難です。

分かち合いでは、悲しみ比べはするものではないと、

常日頃から言われていますが、

震災後、鬱々とされている方々も多いことと思います。

自分の死別体験が呼び起こされる、そんな2次被害3次被害もあるでしょう。



私は震災からちょうど1カ月後に、

仙台市若林区・宮城野区に仕事の関係でボランティアに入りました。

今週末から石巻にも行く予定です。

 

どんなボランティア、専門職、医者でさえ、行政でさえ、

「自分が何ができるのか。何もできないじゃないか。」

そう悩みながら現地に来ているのを見聞きしました。

 

行ってみてわかったことのひとつには、

「何ができるのか」

の前に、

「何ができるのか現場と一緒に考えて動くことの大切さ」

でした。

 

どんなボランティア活動も

どんな支援活動も

根っこは同じかもしれません。

 

(桃) 

2011年

5月

28日

スタッフ養成講座

スタッフ養成講座が今年も6月から始まる。

 

かれこれ2年前、

私は自分の中で、2回棚上げしてきた死別について、再度取り組むべき「時」がきたと思えた。

この会の「スタッフ養成講座」の募集をHPで見つけたのだ。

 

講座はあくまでも自分の整理のためだった。

内容はとても多角的で、

歴史的文学的な観点から、心理的な観点、そして分かち合いというグループワーク等々、

幅広い学びだった。

何よりもすばらしかったのは、

モチベーションは別にして、

それぞれがそれぞれの体験で、死別に対して真摯に向き合っているメンバーと出会えたことだ。

しばらく棚上げしていた私にとっても、立場や死別の内容は違えど、

そこは分かち合いの場であった。

だからこそ、自分以外の誰かのために何かができるなんて、

とても苦しくて思えなかった。

 

帰りの電車ではよく悩みながら帰ったのを思い出す。

この講座を受けても自分が何かできるなんてとても思えないと。

 

今となっては、

それも全てそのことにも意味があって、

時の流れがあって、

出会うべく人々との出会いがあって、

いまこうして自分が居るのだと思う。

不思議なご縁だ。

 

そんな運命ともいえる流れに、

導きを感じたように今はとても感謝している。


(桃)

2011年

5月

09日

2011年記念講演「食べること 生きること」

生と死を考える会では、今週の土曜日(5月14日)に五島朋幸氏をお迎えし、記念講演「食べること 生きること」を開催します。

五島先生がおっしゃるように、長寿社会である我が国においては、「食べること」と「生きること」は直結するテーマではないでしょうか。

 

日時 :5月14日(土) 14:30~16:00(受付14:00)

場所 :上智大学(旧聖母大学) 目白聖母キャンパス 2Fセミナー室

 

申し込み:NPO法人 生と死を考える会までお申し込みください。

 

まだ、参加申し込みをしていますので、興味のある方は是非、ご参加頂けたら幸いです。

 

詳細は↓をご覧ください。 

http://www.seitosi.org/lecture/inochi.php

 

五島先生からのメッセージです。

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 現代日本の一つの大きなトピックは、「長寿社会」になったことです。これは、十分な栄養状態が保てる平和な社会がきたというだけでなく、医学の飛躍的な進歩が貢献していることは疑いようもありません。しかし、誰もが願う不老長寿に近づいてた「長寿社会」であるにもかかわらず、なぜか社会に歓迎ムードがありません。むしろ、急速な高齢化は社会問題として捉えられるようになりました。それならば、いったい医学の進歩とは何だったのでしょうか。

人間の口の機能はいくつかあります。食べること、話すこと、息をすること。いずれも人間が人間らしく生きるために必要不可欠な機能です。中でも、口から食べることの効果は計り知れないものがあります。一口のゼリー嚥下から意識が清明になり、長い長いベット上だけの生活から車椅子に移乗できるまでになった方がいます。口から食べることで家族に笑顔が戻った例もあります。口から食べることは人間として生きる本質なのかもしれません。


現代の技術は、口から食べられなくなったときの代替栄養手段を獲得しました。しかし、「口から食べる」ことの代替手段はいまだにないし、今後とも現れないでしょう。だとすれば、人間らしく生きるために医療は、社会はもっと「口から食べる」ことにこだわるべきではないでしょうか。食べることを大切にするケアこそが日本の高齢社会に明るい光を照らすかもしれません。

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(緑)

2011年

4月

22日

大きな古時計

4月になると、学校や職場では新しい仲間が増える時期かもしれませんね。


僕は、4月から新しい環境・土地に引っ越しをしました。


引っ越しをすると、家の中から、過去の思い出がたくさん出てきますね。


今回は長年住んでいた家からの引っ越しだったので、自分自身、置いておいたことすら忘れていた物も出てきました。


そして、10代の頃の写真や思い出の品が出てきた時には、つい笑みがこぼれたり、あの時はバカしてたな~なんて思ったり。


僕は故人の形見として、その人が使っていたタンスをとっています(亡くなってからかれこれ10年経つのですが・・・)。

もちろん、今回もそのタンスを引っ越し先にも運んでもらいました。


でも、残念なことになぜかそのタンスは引っ越しをする度に傷ついてしまいます。


前回、引っ越しをした際、運搬の業者の不手際で天板に穴があいてしまいました。

そして、その修理もきちんとしてもらえず、今回の引っ越しでも、前回の修理が適切にされていなかったことが原因で、また天板が壊れてしまいました。

 

もちろん、業者にとっては、「ただのタンス」でしかない。でも、自分にとってはただのタンスではない・・・。

 

なので、壊れた時に業者から「新しいものに買い替えさせて頂きます」と言われたり、修理をしたといっても、きちんと修理をしてもらえなかった「タンス」を見ると、とてもつらい気持ちになります。


なにか、その故人が傷つたいようで、悲しんでいるようで・・・。


それでも、その長年使った古びたタンスは、僕にとってはそばに置いておきたい大切な思い出の品です。

 

ふと、幼い時に歌った「大きな古時計」を思い出した4月でした。


(緑)

2011年

4月

08日

春が辛い

こんにちは、オレンジです。

4月になりましたね。
新年度が始まり、私の周囲も少しずつ新しい環境になっているようです。
職場の仲間も新たに増えました。
通勤途中の道では、ピカピカのランドセルを背負った小学1年生が、夢中で走り回っています。
桜並木がだんだんとピンク色に移り変わり、
「あぁ、もう春なんだなぁ…」と思います。

 


季節や行事は、遺された人間にとって、とても残酷なものです。

 

私は2006年の9月に、大切な人を亡くしましたが
死別から一年目は、ハロウィンもクリスマスもお正月も節分もバレンタインもホワイトデーもゴールデンウィークも海の日も夏休みも、どうやって過ごしたのかあまり覚えていないんです。


行事ごとと言えば、ただただ初七日や四十九日やお彼岸や、そういったお弔いの行事だけを、脅迫的にこなしていたように思います。

 


断片的に記憶しているのは、行動ではなく感情。


クリスマスで浮かれている街の様子に終始イライラし
喪失感でいっぱいの自分と、幸せそうな周りの人を比べては羨んでばかりいたこと。


とにかく、「楽しい雰囲気」が憎らしくて仕方なかったこと。
「どうして私だけ」と何べんも何べんも思って、自分の人生を恨みました。


 

ましてや春なんて、喜べませんでした。
何もかもが希望に満ちたような始まりの季節は
誰もが前向きにならなきゃいけないと錯覚させます。


死別から半年以上経った4月には
「いつまでも落ち込んでないで、そろそろ元気にならなくちゃ」
「オレンジちゃんがいつまでも泣いていたら、亡くなった人が浮かばれないよ」
そういった言葉を掛けられるようになりました。


アドバイスは、私のためを思ってのものでしょう。
でも立ち直るなど程遠い私には、その言葉は重く苦しく、正直な話、負担でしかありませんでした。


アドバイスしてくれた人を前に
「もうこの人にだけは絶対に弱音を吐かない、吐いてはいけない」

そう心に誓ったように記憶しています。

私にとって春とは、希望に溢れた季節ではありません。
大切な人が傍にいないことを痛いほど実感し、
周囲の人との温度差に、もがき苦しんだ季節です。


このブログをご覧になっている方で、春が辛い方はいらっしゃいませんか。


皆さんにとって、「春」とは、どんな季節なんでしょう。

 


(オレンジ) 

2011年

4月

01日

祈り

初めまして、新米スタッフの「オレンジレンジャー」です。
今回から、ブログの更新を担当させていただきます。
他のスタッフと順番で登場予定です、宜しくお願いします。

 


皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
本当に本当に、大変な事態になってしまいました。

直接被害に遭われた方はもちろん、
今や日本中の誰もが、心を痛め不安な毎日を過ごされていることと思います。

報道を目にし耳にし、私自身も激しく心が揺れました。
大切な人を失った自分の体験と重ね合わせては
色々なことを思い出し、考え、苦しくて堪らなくなります。



今回の災害で、突然大切な方を喪われたご遺族のお心はどんなに底なしでしょうか。
ご自身も避難所にいて、
そっと涙を流すことさえままならない方もいらっしゃることでしょう。
悲しみに向き合うことすら許されない状況を思うと、本当に言葉になりません。


手を繋いで逃げていたはずが、あっという間に津波に奥様をさらわれ
以来奥様が行方不明だという男性の話を知りました。
「あの時どうして手を離してしまったんだ…」と、

顔をくしゃくしゃにして、呻くようにおっしゃっていました。

 


ガレキの下敷きになったお母さんを残して、「自分だけ逃げたんだ」と口にする男性がいました。
避難所から、毎日自宅のあった場所へ通っては、
何時間も何時間もガレキに手を合わせているそうです。
私がこの話を知ったのは地震から一週間後。
男性のお母様はガレキの奥深くで亡くなっていました。
ガレキを撤去しなければ遺体に触れることさえできないのに
行政からは「手が足りない」と、遺体の収容を断られたのだそうです。
「寒いだろう。冷たいだろう。今日も出してあげられなくてごめんな。もう初七日なのに……」。


遺された方がご自分を激しく責める姿、そういった報道に触れるたびに
私は堪らない気持ちになります。

私はきっと、被災地の方の絶望もご遺族の方の無念さも、1%だって理解できないでしょう。
それでも祈らずにはいられません。
どうかどうかご遺族がご自分を責めることのないよう、
ご自身を労り大切にされますよう。


命が限りあるものだということを痛いほど感じ、
「生と死」について、深く問い掛けた3月でした。



(オレンジ)

2011年

3月

20日

ハチドリの話、遺されてくれたもの

こんばんは。

 

みなさんはいかがお過ごしですか?

 

今日、知人にニュージーランドで愛されているおとぎ話を教えてもらいました。

 

『森で大火事がありました。森の動物や鳥は大騒ぎ。でもその中で

小さなハチドリはその小さな嘴で水を淡々と運んでいたとさ。』

 

「焼け石に水やん。アホなことをするなぁ」 まずそう思いました。

けれど今の状況にあてはめたら、ハチドリって偉いかもと思います。

 

自分にできることを無理せず淡々とやる。

自分にわからないことは考えずに、ただ今を生きる。

 

この1週間、非常事態で無理せざるを得ない部分もあるのですが、

先を考えすぎたり、できないことまでやろうとしていた自分に気づきました。

自分の心の声をちゃんと聞きたいと思います。

 

それからもう一つ。生と死を考える会は会報を発行していて、その中に「会員を訪ねて」という亡くなった大切な方への会員の思いを綴る記事があります。

 

126号記事では、お父様を突然亡くされた会員の方が書いて下さっています。

 

お父様から2つの大切なことを遺してもらったそうです。

 

『ひとつは、いつもできるだけ明るく前向きにということ、

もうひとつは、人は必ずいつか死ぬ、私の人生も明日終わるかもしれないということ』

 

自分にできることをやる、しんどいことに気づく、とはいえ、できれば明るく前向きに。

 

分かち合いはいつもどおり行っています。もし良かったら分かち合いの時など、

会報も手にとってご覧くださいね。

 

2011年

3月

15日

測りがたい悲しみ

3月11日、東北地方を襲った大地震・大津波の被災地の皆様に、謹んでお見舞い申し上げます。



沢山の亡くなられた方々の上に、深甚なる哀悼の意を表します。



遺族の皆さんは、どれほどの喪失感、悲しみを味わっておれることでしょうか。私たちには測りようもありません。



今は一刻も早く、避難先の皆さんに、電気・水・食料・衣料・薬品・情報などが届けられますように。



3月15日 NPO法人 生と死を考える会 理事長 田畑邦治

2011年

3月

15日

乗り越えていく

大変なことになってしまいました。

ブログを読んでくださるみなさんは、ご無事でいらっしゃるでしょうか。

 

会員の中には、被災された方もいらっしゃるかと思います。

またご親戚やお知り合いが被災地にいらっしゃる方もおいででしょう。

 

被災地のニュース、聞けば聞くほど、言葉にできない思いが

湧いてきます。どんなに不安で、つらい思いをされていることか・・・。

 

生活ができるだけ護られ、皆さんの思いが届きますように。

心から応援しています。

 

生と死を考える会がある信濃町の真生会館で地震に遭遇したスタッフも

いらっしゃいました。

自宅に帰れず、一夜を真生会館で過ごしたメンバーもいましたが、

落ち着いて、一緒にいるメンバーで励ましあいながら過ごされたようです。

 

私はというと、なんとなく落ち着かないし、不安がないといえばうそになる。

映像を見ていると、自分の経験とだぶらせ思い出すこともあったりしてつらくなる。

見ていられなくなる。哀しくなる。

 

でも、にもかかわらず、大切な人を失った経験を持つ私達だからこそ、

できることもあるような気もします。

 

それぞれの持ち場で、大変だけど、落ち着いて、できることを、力合わせて

がんばりたいです。

 

私ができること。大切な人を思いやる。

スーパーなどで働く人にありがとうと伝える。募金する。道を譲る。

必要なものだけ買うようにする。こんなことしかできないけれど、やります。

 

今ラジオで、人はどんな困難でも乗り越えようとするし、乗り越えられずはずだと

言ってました。

 

私もそう信じたいです。

 

2011年

3月

11日

お知らせ

こんにちは。

優しい春の陽が、眩しく感じられる季節となりましたが、まだまだ頬を撫でる風が冷たく、寒い日が続きますね。


さて、本会では月に5回の「分かち合いの会」を開催しています。


この「分かち合いの会」は、大切な人との死別を体験した人達が、その悲しみ、苦しみ、生きづらさなどを自由に、素直に語り合い、時に共感し、寄り添い、その思いを分かち合う場です。


ここでお知らせです!!


現在、若い世代の分かち合いの会は、毎月第3土曜日の17:00~19:00に開催していますが、4月からは、30分延長して、17:00~19:30分となります。


分かち合いの時間が、30分延長した分、安心してゆっくりと、それぞれの思いを自由に語り合えれば、と思っています。

(赤)

2011年

3月

07日

色彩の妙

こんにちは。今日東京は春の雪です。

 

勤務先の庭の白梅に雪が降り積もっていてモノトーンの美しさを感じました。

 

また、紅梅に白雪というのも妖艶です。

 

さらに大きな桃の木を包むように天から無数の雪の到来するさまは荘厳です。

 

さて、本会の理事長をつとめる私は、生と死をめぐる日々の小さな心象風景をこの場をお借りして綴ってみたい

 

と思っています。

 

私は北海道の函館に生まれ育ちましたので、雪景色がとても好きです。

 

こんな雪の日には、自分の力を超える大自然に覆われるようにして生きていることを、理屈ではなしに実感します。

 

それでは、よい一週間を。

2011年

3月

04日

会いたい

子供の頃、「母」の存在は絶対でした。


どんな時でも、何があっても、一番の味方であり、理解者であり、母の暖かく大きな優しさに、いつも守られていた気がします。



やがて、進学したり就職したりすると、自分の新しい世界に夢中になり、母を悲しませたり、傷つけた事もありました。


勝手ですね。本当に。


母が亡くなって5年。


年を追う事に、会いたさが募る様な気がします。


今だからこそ、女同士、いろんな話が出来たのに。


「ひどい事を沢山言ってごめんね。」って謝りたかったのに。


最期にちゃんと「ありがとう」って伝えたかったのに。


聞きたい事も沢山あったのに。


無理な事だと分かっていても‥


それでも、


やっぱり、


会いたい。


会いたい。


(赤)

2011年

2月

23日

原始的な欲求

どなたか「ソーシャル・ネットワーク」という映画を観た人いますか?

そうあのフェイスブックを作ったマーク・ザッカーバーグの初期の経過です。

 

もちろん、フェイスブックを作った経過やSNS(ソーシャルネットワークサービス)の新しい概念となったなど、

様々な見方があります。

私が観た感想は、

裁判という違うステージで、子どもの喧嘩をやっているだけ、というかんじでした。

それは、

友達としての思いや妬みや憧れや、異性へ良く想われたい、自分を価値のある人間だと思わせたい、

などなど、現実の人間関係が、フェイスブックを開発したその経過や、開発に携わった周囲との経過の中に集約されていたように思います。

 

そしてその現物のフェイスブック自体も、

現実の人間関係をただそのままネット上に持ち込んだシステムと言われています。

現在のリビアの反政府運動も、

このフェイスブックやツイッターで、民衆が動いているとも言われています。

 

このIT上のシステム。

結局、人と人とがつながりたい、

そんな欲求を元にしているからこそ、

こんなにも拡大浸透しつつあるのでしょう。



私はアナログ人間なので、

(たまにはブログもツイッターもフェイスブックもいいかなとも思いますが)

 

人と人とが顔を合わせて、言葉的・非言語的なコミュニュケーションを感じたい。

相手がどんな言葉をどんなふうに語るのか。

そこにどんな気持ちがあるのか。

相手からもらえるものは何があるのか。

自分はどんな言葉を選び相手に贈り、

どんな気持ちを見せるのか。

 

人とつながっていたい、

同じ思いを共有したい、

悲しみも苦しさも、

理解は互いに完璧にできないからこそ、

傷つけるかもしれないし、傷つけられるかもしれない。

 

でも、

でも、

それでも、

 

それでも分かち合ってみたい。



そう思うのは人間としての原始的な当たり前の欲求なのかもしれません。



(ピンク)

2011年

2月

13日

だからこそ。

私は仕事柄、

病気を抱えてターミナル期を迎えている患者さんやご家族の方と日々遭遇します。

 

自分がグリーフワークを体験したからといって、

そのような方々に、ステージは違えど、

ちゃんとしたことを見据えたり、

アドバイスしたり、共感できるかと言うと決してそんなことはありません。

 

事の理不尽さに対する怒りだったり、

死に向かう孤独感だったり、

大切な人をこれから失おうとする深い深い悲しみだったり、

そういったものに、

ただ、

ただ、

圧倒されるだけ。

 

その言葉を失う中で、ほんのちょっとでも自分が職業人として、手伝えることを探していく。

そんなかんじなのです。

 

 

体験したからといって、

個人個人の思いや価値観や大切なものはそれぞれ違う。

わかったような口をきいてほしくないし、

誰ひとりとして自分のことも、相手のことも、

理解できないと思う。

そう考えると自分自身、ずっとずっと、長い間、誰も信じられず孤独だけで生きてきたのだと思う。

私の死別の年齢(12歳)で、周囲に理解してくれる人は皆無だった。

理解してくれようとした人が数人いたことが、唯一の救いだった。

でも私のペースに合わせずに、

自分勝手に理解してくれているつもりになっている、大人達が大嫌いだった。

 

 

だからこそ、

 

グリーフワークを体験しようとしている、体験している、

目の前の人を、

理解できないからこそ、

理解したいと思う。



そう、

私は理解できないくせに!

と周りに怒りながらも、

ずっとずっと純粋に理解してくれようとする人を探していたから。

 

そう、
その人の個別性は理解できなくても、

その悲しみや苦しみと共に生きている目の前の人が、

自分のように愛おしく感じるから。



だからこそ。

だからこそ。

 

(ピンク)

2011年

1月

26日

言葉の力

あっという間に1月も月末です・・・。

2月になったら、もう少し暖かくなったらいいですね。

 

今日は、「言葉の力」について書きたいと思います。

 

僕は10代後半で大切な人を亡くしましたが、その死を現実に理解するようになるまでに、約3年くらいかかったように思います。それまでは、先も底も見えぬ暗闇をもがき苦しんでいたように思います・・・。

 

3年過ぎたある日、今まで死別の事実を受け入れていない自分がいたこと、「その人がこの世にもう存在しないこと」に気付きました。

それから、死別に関する本を読みあさり、少しずつ自分の気持ちに向うことができたように思います。

 

そしてある本で、以下の言葉に出会いました。

 

「肝心なのは、人生が何をもたらすかではなく、人生がもたらすものをどうするかだ。(エドガー・ジャクソン)」
【死別の悲しみに向き合う】より引用

 

それまで僕は、自分に降りかかった出来事の不条理さを嘆き、この世に生きる自分に対して、「苦しみと憎しみ」しか見い出せなかった。

だから、「人生がもたらすものをどうするか」という言葉は、僕にそれでも今を生き抜く「勇気」をくれました。

 

もちろん、この言葉はある程度の時間が経ち、死別に向き合うようになった時だからこそ、救われた言葉だったように思っています。

 

これを書くと、僕が死別を前向きにずっと捉えていると受けとられるかもしれません。

 

でも、実際はそんな簡単なものではないんですよね・・・。

 

もちろん、死別の苦しみにもがき続けていた時のように、死別のことで日常生活に支障があるということはありません。

 

ただ、「死別を前向きに捉えられない時もある」ということ、それが真実のように思います。

 

死別を前向きに捉えて頑張ろうと思い過ぎた時は、↑で書いた「人生がもたらすものをどうするか」という言葉が、逆にしんどく感じて仕方がありませんでした。

 

そんな時、今度はあるテレビドラマで

 

「神は乗り越えられる試練 しか与えない」

 

という言葉を耳にしました。

 

僕は特定の宗教を信仰しているわけではないので、神が存在するかどうかは分かりません。

 

ただ、「乗り越えられる試練しか与えない」という言葉に、僕は救われた気持ちになり、何か肩の荷が下りたように感じました。

 

そして、月日が過ぎ、今こうして、会でスタッフをしながら、ブログにコメントを書いている・・・そう考えると考え深いものがあるなと思う今日この頃です。

 

(緑)

2011年

1月

13日

ブログを通じた繋がり

緑レンジャーです!!

 

1月に入り、各地で1年の最低気温を観測するなど、寒い日が続いていますが、寒さに弱い僕にとっては辛い日々です。

 

そして、新年になり半月が経ちますが、世の中は・・・・明日・明後日が大学のセンター入試です

(受験生、がんばってください!!)←僕も学生なので、このニュースは身近な話題です。

 

そんな僕の今日のテーマは、「ブログを通じた繋がり」です

本会では、月に5つの分かち合いの会(参加者が個々の思いを自由に話し合う場)を開いています。

そして、分かち合いの会の後には、場所を移動して、都合のよい方々と落ち着いた雰囲気の喫茶店で食事や軽食をとりながら、話したりなかったことなどなど、時間を共有しています。

 

そして先月行われた「若い世代の分かち合いの会」の後の喫茶店で、このブログを読んでくださっている方がおられ、ブログの話がでました。

 

このブログではスタッフが個々の思いを発信するという形をとっています。なので、今こうして、どういった方がブログを読まれているのか、どんなことを感じられているのか、分からない面があります。

 

ただ、このブログを読んでくださっている方がいることにその場にいたスタッフはうれしくも、またちょっと恥ずかしい気持ちがしたのではないかと思います。

 

会に参加された方をはじめ、様々な状況と背景の方がこのブログを読まれていると思うと、僕たちとしては、読まれている方にとって、このブログが少しでも何らかのお役に立てたらうれしいと思っています。

 

ブログを読んで下さっている方へ、感謝の気持ちが届きますように。



(緑) 

2011年

1月

07日

初詣

新年最初の登場で、失礼します。(赤)

 


箱根神社に初詣に行って来ました。


近頃のスピリチュアルブームで、すっかりパワースポットとして有名になってしまった箱根神社ですが、あまりにも人が多すぎて、驚いてしまいました。


社殿は朱塗りの権現造りで、軒に見事な龍の彫刻があり、そこここに歴史を感じさせられました。


参道の樹齢100年以上の巨大な杉並木からも、パワーを十分頂きました。


今度は、ゆっくりと又訪れてみたいと思います。


ある人が、人との出会いが「道をつくる」と言っていましたが、私も昨年は色々な出会いがあり、またその出会いを通して、支えられ学ぶ事も沢山ありました。


一つ一つの出会いに感謝しながら、今年もまた、どんな縁を結んでいけるのか、とても楽しみです。