2014年

9月

06日

スタッフブログ更新休止のお知らせ

生と死を考える会スタッフブログにご訪問いただき誠にありがとうございます。

諸般の事情により、生と死を考える会のブログを休止させていただいております。
会の詳細につきましては公式サイトをご覧ください。

2014年

7月

31日

命日と友と

7月になると、友からぼちぼちメールが来ます。

「お元気ですか、久しぶりにランチでも」という間接的なもの

「お参りに伺いたいのですが」という直接的なもの

 

7月にはお盆もあるし、月末近くには息子の命日が控えているのです。

 

昨年2013年の7月が、このブログに参加して初めての命日でした。

昨年、こうして連絡をくれた友人らにこのブログを紹介しました。

「大切な人を亡くした仲間たちと交代で書いています。よかったらご覧ください」と。

 

1年たち、今年、そのブログについての感想をよせてくれた友人が何人かいました。

「時々拝見しています」

「心のうち、気持ち、など今まで私が知りえなかったことが描かれており、初めて

知ることでした」

「これからも時々読ませていただきます」

私の歳ですから、親を亡くした友は何人もいます。

亡き子への思いは「想像することしかできない辛さ」だけれど

親についてのブログには「共感するところがある」と。

自身でも、仲間とブログ発信している友は「こういう場があるのはいいね」と

言ってくれました。

 

今年の命日の朝、娘とお墓詣りに行きました。

そこへちょうど友人からメールが入りました。娘の幼稚園時代の友人、息子の1~2歳を

知っている友からです。

 

  ××ちゃんはいつも、あどけない表情で周りをじっと見てたよね。

  今でも、きょとんとした目で空から見てるのかな。

    (中略)

  小さいままの××ちゃんスマイルで、なんだか天使みたいだと思います。

 

  ○○ちゃん(娘のこと)がしあわせでたのしい気持ちで、毎日を過ごせますように。

  △△さん(私のこと)、だんだんと心穏やかな時間が増えていきますように。

 

素直にうれしかった。涙がでました。

子どもの命日を迎えた友にどうやって声をかけよう、どう受けとめるだろう、

本当に言葉を選ぶし、気も遣う、考えただけで気が重い作業だと思います。

「いい言葉が見つからなくてごめんなさい」とメールをくれた友

メッセージカードなしで花やお菓子を送ってくれる友ら

気持ちは十分に伝わります。

本当にありがとうございます。

こんな友らに支えられて、ようやっと生きていけるのだなぁ としみじみ感じました。

 

友人の子どもの命日なんて覚えていないのが普通です。

夏だったなぁくらいは覚えていても、どうしたらよいかわからなくて、触れないことを

良しとする人が殆どです。

また、お参りに行ったり、息子の話題を出すことで、私が前を向くのに邪魔なのでは…

と私を気遣うがゆえに連絡してこない友もいます。

子どもを亡くすなんて、想像すらしたくないですし、

(ほんと、恐ろしいから想像しないでください)

こんな気をつかう相手に連絡するのも面倒ですからね。

それはそれで仕方のないことだと思っています。

 

人それぞれ、同じように子どもを亡くした方々でも悲しみのあり方は色々で、

周りの人たちにどうして欲しいかも様々です。答えは一つではないし、何が正しい答え

なのかも、人により、時によるのですから。

 

私にとっては、友が話題にだそうが出すまいが、息子を思い出すことをやめることは

ないでしょう。息子がいなかったことにはできません。

息子のことで悲しくなったり辛くなるのは当たり前。でも楽しい思い出もたくさんある。

だから、たまには息子のことを一緒に思い出してくれる友がいたら、息子が生きていた証に

なるようで、とてもありがたいし、うれしいな、と思うのです。

 

3.11をはじめ、数々の被災者の方々が「忘れないで」と呼びかけているのも

こんな気持ちもあるのではないか、と思っています。

 

そんな親の気持ちの一例として、このブログを通して、

(私の友だけでなく)PCの向こう側で読んでくださる多くの方々に、

伝えていけるものがあるとよいな、と思っています。

 

空色

 

2014年

7月

13日

迎え火・送り火

 

今日は713日夕方に亡くなった霊が迷わずに

帰ってこられるように迎え火を焚く日ですね。

仏壇の前に精霊さまをお迎えするために

いろいろなものをお供えします。

きゅうりで作った馬は早く来れますように、

おナスで作った牛はゆっくり帰るようにとのことですが、昔から亡くなった人への想いはあまり変わらないんですね。

館山出身の夫は、迎え火や送り火を焚く時、お小皿にお米、小鉢に水を用意して(みそはぎの花を懐紙で縛ってお水をつけ)迎え火のおがらに火をつけると「お水飲み飲み早くおいで、お米食べ食べ早くおいで」送り火の火をつけると「お水飲み飲み、お米食べ食べ帰って、また来年おいで」と言っています。

初めの内いろんな思いがわき上がって怒りたい気持ちになりましたが、子どものころからお母さんと一緒に迎え火送り火を焚くそばにいて深い意味も考えずにお盆供養の1つとして身体に沁みこんでいて、自然に口から出るのだとわかるようになりました。

今では亡くなった家族やご先祖を供養し、亡くなられた人をしのぶ行事として素直に受け入れられるようになりました。

                          朱鷺色

 

2014年

7月

08日

気持ちがかなり疲れてしまったときは、すべてを振り切って、ひとり旅に出ることにしています。

気持ちがやや疲れたときには、やるべき事をぶん投げて日帰り温泉に行くことにしています。


自分の中のイエローカード。

日帰り温泉逃避を決行しました。
色々なことを根を詰めて考えすぎたので、脳みそがぱつぱつ、カチンカチンになっている感じがしたのです。
当然肩も腰もバリバリです。

 

もう一時間だってパソコンの前に座っていたくない!

自分の気持ちやからだを緩めなきゃ良いアイディアなんて出てこないと感じました。

そういう時は逃げるが勝ちです(笑)

 

一人用の露天風呂に足と頭をひっかけ仰向けになり、脱力しながらぼーっと空を眺めていました。

台風接近のため、空は一面どんよりした曇に覆われています。

時折ポツポツと小雨が顔に当たります。

流れゆく雲の様を見つめていると、失われつつある時間に少し不安を感じました。

1分1秒たりとも過去の時間には戻れない自分。

今こうしている間にも時間を消費してしまっています。

このままでいいのか?

今より生産的なことをしなくちゃいけない?

改善するところはどこ?
何をしたらいい?

 

流れる雲の切れ間から、時折太陽が顔を出します。
隠されても、隠されても、太陽は顔を出し、顔を出した瞬間に、その光がわたしを包み込みます。

グレーの曇った空に一筋の光。

何だか神々しい。


太陽の光はなんと私の目にハート形の残像を見せてくれました。
一番だいじなのは「こころ」だよと言われているようでした。

自分の気持ちが柔らかくなることをしたい。

 

風呂上がりに休憩所でビールを飲みながら、ニュースから流れる号泣する議員の映像を見ていました。

斜め前のテーブルに座るおばさまと目が合い、思わずニヤリ。

 

器用に世渡りする必要なんか無いのかもしれません。

回り道をしたとしても、嘘をつかずに、ごまかさずに、自分らしく。

さて、がんばって仕事をしようと思います。

 

雲の向こうは、いつも青空。

 

水浅葱

2014年

7月

04日

盆提灯

7月になりました。 東京はお盆です。

時期としては7月13日からですが、

7月に入ると、盆提灯を飾らなくては、と気が急きます。

年に一度、亡くなった人が帰ってくるのですから、

早く準備しなくちゃ、と思ってしまうのです。

 

特にうちの息子はまだ小さいものですから(生きていたら9歳です)迷子にならないように、

 うちはここだよ、早く帰っておいで、

 13日まで待たなくていいよ、

と、窓辺に提灯を飾ります。

 

息子が亡くなったのは7月末でしたので、新盆は約1年後でした。

夢遊病者のように、仏壇屋街を隅から隅まで1軒づつ見て回りました。

息子にいい提灯を買ってあげなくては…

あの子にはどんなのがいいのだろうか?

   

なぜ、おもちゃや洋服ではなくて、こんなものを求めて歩き回っているのだろう

 

享年2歳のあの子にあう盆提灯なんて見つけられなくて…

 

どうにか一つ買い求めました。

 

何か足りない気がして、数日後、またあの通りを歩き廻り

青い光が灯る回転灯籠を買いました。

 

満足したわけではないけれど、

それでも何かをあの子に買ってやれる

その思いだけで どうにか買うことができました。

 

新盆用の白い提灯はあまりに悲しくて買う気になれず、

ネット注文…

 

あれから7年

じいじに連れられなくても

息子はそろそろ一人で帰ってこれるでしょうか?

 

空色

2014年

6月

28日

大切な思い出

こんにちは。最近は天気の不安的な日が続きますね・・・。

 

さて、今日のお題は「大切な思い出」です。

今月、分かち合いに参加する前にある出来事がありました。

その日は午後に神保町で用事があり、分かち合いが始まる前に時間があったので、神保町から会場の会館まで歩くことにしました。

 

神保町から御茶ノ水の方に歩いていく方向には「古本屋さん」が軒を重ねています。

そしてある道を歩いている時、まるでタイムスリップしたかのように、昔の記憶と感覚が鮮明に蘇りました。

大学生の時、神保町の古本屋を大切な相手とハシゴして・・・・それは僕にとって「人生の中で一番幸せな時期の何気ない出来事」の1つでした。

 

僕にとって今回、神保町を歩くということは偶然であり、でも、本当は必然だったように思います。それは神保町に行けばその時の出来事を思い出すのは分かっていたし、だからこそ、これまでその場を訪れるのが怖かったのかもしれません。自分がどうなってしまうか分からない怖さに。

 

もちろん今回、歩くのもそういった不安はありましたし、神保町の駅から歩き出す時は、すごく勇気がいり、心の葛藤がありました。でも、自分の中で「もうそろそろ歩いてもいんじゃないか」と思った、それが僕の背中を押した素直な気持ちだったのかもしれません。

 

時間が止まったように感じた瞬間、その時の風景や雰囲気、匂い・・・そして大切な人の笑顔が、そこにありました。

 

確かに、思い出の場所を訪れることは不安であり勇気がいります。思い出の場所を訪れると懐かしいと感じると同時に、その人がいない悲しみと喪失感に押しつぶされるかもしれません。

 

僕も今回、まったく辛い気持ちにならなかったといったら、正直そういう気持ちにもなりました。でもそれと同時に、心が暖かくなったのも事実です。

 

「あの時にあのお店に一緒に行って、あんな会話をした・・・大切な人の笑顔」

それはやっぱり、自分にとって「大切な思い出」であり、「宝物」に思います。

 

(緑)

 

 

2014年

6月

22日

つむぎ茶論

 

つむぎ茶論のご紹介

 

 日時:第2土曜日14時~17

 場所:東京YWCA会館2214号室   生と死を考える会事務所

        

疲れを知らない科学技術の進歩の只中で、取り残され、埋没されつつある個々のいのちを思う昨今です。  

 今、私たちが生きているいのちを思い「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか」などにつて、お茶を飲みながら、お菓子を頂きながら語り合う文化を醸成していくことを目指している茶論です。

来るべき「人生90年の時代」を最期まで自分らしく生きることができる「良き生・良き死」についての理解を紡ぎ合いながら深めていきたいと考えています。

 

毎回、いのちに関する最近の話題からのテーマを導入部として、資料とともに話題を提供していただきます。

その共有したテーマについて参加者で話し合い、各自持ち寄った日頃の関心事を紹介していただいて話の花を咲かせています。

心尽くしのお菓子とお茶を頂きながら、様々な年齢の方と深い体験談

問題意識、世代の違いや歴史の繰り返しなどなど盛りだくさんの話題で

文字通り、茶論のひと時を過ごしています。

 皆さまも是非、ご参加いただければ幸いです。

 

つむぎ茶論スタッフ一同

 

2014年

6月

04日

許すということ

許す
今、このかくも難しき課題に取り組んでいます。

「許す」というと「他の誰かのことを、自分が許す」ことと思われがちなのですが、そうではなくて「自分で自分を許す」ということです。

許すは 「緩(ゆる)める」に通じているそうですが、許せない事や許せない人、許せない出来事に出会うと、人はからだが硬直し、呼吸が浅くなり、緊張した状態が続いてしまうそうです。

緊張した状態は、思考の偏りを生み、そうに違いないという思い込みにつながり、視野を狭くしてしまいます。
その結果、一生懸命がんばっても、良い成果につながらないという負のスパイラルに陥ってしまうようです。

実は、その「許せない」を掘って行くと、根っこには「自分を許せない自分」が見つかります。

自分を許せない自分の周りには、人を許せない人、人への評価の厳しい人が集まって来る「類は友を呼ぶ」という法則により、「許せない」コト・ヒトが目の前に次から次へと現れてしまうのだとか。


これは何とも残念なことです。

それでは、自分はおろか、誰のこともしあわせにできません。

誰かを許せないと感じたとき、まずは「自分は自分を許しているか?」を疑ってみることが必要なのかもしれません。


まずは「自分を許す」ことから始めてみる。
誰かを許せない感情を、どうしても手放せないときは
そんな持て余してしまうような感情を持ってしまう「自分を許す」こと。

怒りを感じてしまう「自分を許す」こと。


どこまで行っても「自分を許す」こと。
このどこまで行っても「許す」が、案外難しいものなのです。

やってみるとわかります。
簡単にはできないです。
「許す」を常識や理性、大人の分別で解決しようと思うと、ことごとく失敗してしまいます。

では、どうしたら「許す」ことができるのでしょうか?
まだ道半ばな私ですが、もう、念仏のように「自分を許す」と繰り返して言ってみる。
ただひたすらに条件をつけずに「自分を許す」。

そうやってジタバタしているうちに、「許せない自分」と「許された自分」の線引きが曖昧になってゆき、脳が「あれ?もしかしたら、許せちゃってるかも。」と騙されるときがくる。


お肌のターンオーバーもほぼひと月。
「自分を許す」をひと月続けると、こころとあたまが柔らかくなってくるようです。

まずは諦めずに「1ヶ月」。

おなかが空いてきました。
高カロリーのラーメンに、餃子を追加オーダーしてしまう自分を許したいと思います。

水浅葱

2014年

5月

23日

父の命日に

 昨日は父の命日でした。

父のお墓は、息子のお墓と同じ霊園のお堂の中にあります。

いつもと同じように先に息子のところに寄ってから父の方へ行きます。

息子のところに週に2回は行くので、父のところにも寄り、お花は常にたやさないようにしています。父は、孫のおかげでとはいえ、こんな親不孝の娘がまめにお参りに来るなんて、あちらで驚いていることでしょう。

お墓に行くと、紅茶とお菓子が備えてあり母が来た形跡がありました。

お堂ではお供えものの食べ物はそのままにせず、持ち帰るきまりになっていますが、母はいつも置いて帰ります。私はいつもそれを持ち帰り、娘のおやつに出します。

「じいちゃんから」と言って。

父は、あの年代の男性にはよくあるように、仕事一途の人でした。土日も仕事でしたから、私には遊んでもらった記憶も、家族旅行の記憶も殆どありません。

でも、私が高齢出産だったおかげで、娘が生まれた時には、父は仕事を引退していましたので、孫とは遊んでくれました。娘にはその記憶があります。じいちゃんからのお菓子も紅茶も喜んでいただきます。

 

 父が癌で闘病中、母は不安がって毎週来てほしいと電話をよこしていましたが、めんどくさがりで薄情な娘であった私は、2週間に1度、3週間に1度も通ったでしょうか。。。

2年くらいと言われていたのに、ほんの数か月の闘病生活で逝ってしまいました。亡くなった時、悲しいのはもちろんでしたが、申し訳なさとうしろめたさが勝っていたように思います。

 

 父が亡くなった後の色々なことの中で、妹がいてよかった、と思いました。と、同時に親を亡くした時に一人で何もかも背負わなくて済むように、娘にも兄弟を作ってあげたいと心から思いました。すでに娘は4歳になっており、もちろん、それまでも子供はほしいと思っていましたが、なかなか叶いませんでした。

 父の死後、3か月で息子を授かりました。

ああ、父が授けてくれたんだな、と思いました。

しかしすぐに壮絶なつわりが始まり、吐くとき時以外は寝たきりという生活が3か月。

食べることはもちろん、あまりの苦しさに眠ることもできませんでした。衰弱しているのでとろとろとまどろむのですが、吐き気と苦しさですぐ目がさめます。朦朧とした意識の中で、父の病気での痛みや苦しみはこんなものだったのだろうか、抗がん剤の副作用ってこんなものなのだろうか、などと考えていました。お父さん、薄情な娘でごめんなさい、と。

 

 息子がまだたった2歳で逝ってしまった時に、父が、義父があちらにいることが、どんなに

心強かったでしょう。義父や父には申し訳ないですが、先に逝っててくれてありがとう、と。

 

父の命日にそんなことを思い出していました。

 

空色

 

 

 

2014年

5月

10日

姉妹

 

新緑の美しい季節になりましたね。先日明治神宮に行く機会がありました。
大正9年(1920年)に全国から献木された10万本の木であのような森が出来たことに驚きと希望がわいてきました。本殿に行くまでの歩みはまるで森林浴!

フィットンチッドの作用で身も心もリフレッシュしてストレスをやわらげていただきました。

 私の元家族は8人だったのに今では姉一人しか逢うことができません。

5歳年長の姉なのですが多分、感性、興味、好みが違うのか幼い頃から違和感がありました。

結婚してからそれぞれの家庭ができ、よく会ってはいたし、おしゃべりもしたのですが、別れた後そこで話したあれこれを思い出して余韻に包まれることはあまりなかったのです。

 5年前からたった二人になってしまいもうあまり逢わないのかなーと思っていたのですが

時々用事もあり年に2,3回は逢います。

 

先日逢ったときに連れて行ってくれたお店で私がいただいたランチ「漬け丼」(左)です。

姉は「サーモンドン」(右)をいただきました。

 

おしゃれでそして美味しかったです。お醤油にこだわっていると姉が言っていましたが

お盆上にも店内も心くばりが感じられました。

この前に連れて行ってくれたお店も、水元公園の近くの「洋凡料理」のお店で洋食屋さんでしたが「エンゼルのカレー」という名前もうれしく、お味もおいしく、お店のたたずまいも素敵でした。

そのとき姉が「・・・・ちゃんが気にいってくれると思ったの」と私を思ってお店を選んでくれたことがわかってうれしかったです。

 いやだったことばかり考えないで、逢うたびにうれしかったこと話すことにしよう!

姉の新婚旅行のお土産は、博多織の伊達巻でしたが普通の伊達巻の半分の幅で使い勝手がとてもよく今でもお気に入りで使っています。

私が新婚旅行から帰ってきたときは花瓶のありかが分からなかったのでしょう、お風呂の汲み出し桶に入れたお花を飾っていてくれました。

こうしてみると姉からいっぱいいっぱい恩恵を受けていました。

今は逢えない6人の元家族の話は姉と話すのが一番楽しく、話がはずみます。

話すことが出来ることはありがたく感謝です。

 今度は何をご馳走してくれるのでしょうか?

                   朱鷺色

2014年

5月

01日

GWの中日に思うこと

こんにちは~、緑レンジャーです。

 

今日のお題は「GWの中日に思うこと」です。

 

GWは前半、後半といった言い方をすることが多いかと思いますが、今年は今週の月、水、木と平日ということもあり、GW前半・後半といった言い方がピンときません。

 

実際、僕の場合も通常通りの出勤ですので、毎日の満員電車も人の多さにはさほど変わりないようにも思います。

 

GWの連休が長い人、短い人、また仕事柄GWが関係ない方やさらに忙しくなる人、家事が増える人等々・・・

また、GWの過ごし方も、どこかに出かける人、家でゆっくり過ごす人、仕事や様々な活動をされる人等々・・・皆違うでしょう。

 

今年は旅行の予定もないので、3日からの連休をどうしたものかと迷走中ですが、良いGWを過ごせたらと思っています。

 

皆さんにとっても良いGWでありますように。

 

(緑)

2014年

4月

18日

誕生日に

偶然ですが、今日4月18日は私の誕生日です。
そして、アインシュタインが亡くなった日です。
生まれた日と亡くなった日が同じという偶然で、なにげにアインシュタインさんには親近感を感じています(笑)

アインシュタインは、"人生とは自転車のようなものだ。倒れないようにするには、走り続けなければならない。"と言いました。

私はと言えば人には堂々と言えないくらいの年月を、まったく人様とは違う非スタンダードなやり方で自転車を走らせて来てしまいました。
正直、今の今まで自分の年を忘れていたのです。
親友からのメッセージで現実を目の当たりにし、自分でびっくりしてしまいました(笑)

さて、少し前にSWITCH(スイッチ)という自主上映映画の試写会に行ってきました。
遺伝子の研究をされている筑波大学の名誉教授、村上和雄博士の映画です。

【注意事項】
下記のSWITCHの予告編には、JR福知山線の脱線事故の映像が流れます。
お気持ちが揺れてしまいそうな方は、ご覧にならないようにしていただければ幸いです。

この映画はこの世に生まれてきたことの不思議と、人の持つ可能性について考えさせられた映画です。
私たちのDNAは32億の階段があり、1ページが1000字で、1000ページ分の百科事典3200冊に相当する情報を持っているのだそうです。

たった1個の細胞が生まれるために、1億円の宝くじが連続100万回当選するほどの偶然が重ならなければならないのだと聞いたとき、心から自分のからだに「ありがたいなぁ」という気持ちがわき起こってきました。

日々足りないものを数え上げ、ダメなところを見つけ、自分自身にダメ出ししていた自分は、何と愚かだったのでしょう。

私が「わたし」としてこの世に生を受けてから、毎日休む事なくからだのすべてが、繰り返し規則的に動いてくれていることの奇跡。
そこに思いを馳せたとき、ありのままで、今のままで、自分はすべて満たされている存在なのだと考えられるようになりました。

しかも、遺伝子にはまだまだ解明されていない謎があり、何かの拍子に自分の遺伝子のスイッチがONになったとき、人は予想もつかないチカラを発揮することが出来るのだとか。

目の前に起きる出来事のひとつひとつは、もしかしたら自分の遺伝子のスイッチを押すために起きているのかもしれません。

今「これは、自分史上最悪の出来事だ!」と感じているそのことさえも、
ぐぅの音も出ないほど、人生に痛めつけられたときも、
その先に少し歩みを進めたとき、「あぁ、あのときのあの体験が、自分の使命に気づかせてくれ、遺伝子のスイッチがONになった瞬間だったのだ。」とわかる日が来るのかもしれません。

チャールズ・シュルツが"人生は、10段変速の自転車のようなもの。
だれもが、自分がもっているものの大半は使っていないのです。"と言っています。

今日はわたしが生まれた日。
人にはことばに出して言える「ありがとう」を、素直に自分自身にも言ってあげたいと思います。

そして自分のSWITCHをONにして、10段変速を使いこなせるようになりたいと願います。

SWITCHは全国で自主開催されているようです。
詳細はSWITCH サンマーク出版のホームページでご確認いただけます。

 

水浅葱

 

2014年

4月

11日

雲の上の菩薩様

 この春、京都・宇治の平等院鳳凰堂の平成の大修繕がほぼ終わり、公開が始まっていたので行ってきました。

本堂(鳳凰堂中堂母屋)の長押の上には52体もの雲中供養菩薩像が懸け並べられています。

飛雲に乗った菩薩様たちです。

亡くなる人を迎えに来てくれるのです。

今は1000年もたちすっかり色あせてしまい、すっかり渋い菩薩さまになっていますが、院内のミュージアムではCG再現された制作当時の色彩のままの菩薩像が見れるようになっています。

白い雲に乗った色とりどりで鮮やかな菩薩様たちが楽器を演奏し、舞い、合掌し、にぎやかにお迎えに来て、また天上へとにぎにぎしく導いていってくださる様が浮き彫りになっています。

 

 当時、1052年は仏教でいう末法初年、世が乱れ、死がとても恐れられており、平等院は理想のあの世を想い作られたそうです。

 

 私は今まで、人があの世に召されるときは、何となく、静かに上っていくイメージがあったのですが、これなら、亡くなったあの子も天上へあがる時に怖くなく、楽しく上っていけたのではないかなぁ、と思いました。

 

(仏教的にはもっと深いものがあるのかもしれませんが、私は仏教に詳しくないので、

観光知識として仕入れたもので、書いております。ご了承ください。)

 

(空色)

 

 

2014年

4月

07日

ドラマのセリフ

空色です

 

新年度が始まりました。

今日は青空の広がるいい天気です。

 

「雲ひとつない青空」という表現があります。

 

 先日、テレビドラマの中で、自らの心の内をあらわすのに、この表現が使われていました。

前科のある主人公が、罪を背負って生きていく自分には「雲ひとつない青空」のような曇りのない明るい気持ちになることはもうないのだろう、という場面でした。

状況は違いますが、思わず自分の心境と重ね合わせてしまいました。

 子供を亡くすという、それこそテレビや小説の中のできごとかと思っていたとんでもない不幸が自らの身におこってしまってからは、どんなに楽しいことがあっても、どんなにきれいな景色を見ても、心の底から楽しんだり感動したりといった「雲ひとつない青空」のような気持ちにはなれません。心に常に冷たくて重いものを抱えています。

 

 ドラマの中では、こんなふうに続きます。

  「雲ひとつない青空」は望めなくても、雨のあとは晴れるし、雨の時に傘をさしかけて

  くれる人もいる。

 

 数年たって、私も心の底から笑顔にはなれなくても、笑うことはできるようになりました。

雲ひとつない青空より、雲があったほうがあの子が雲の上にいるような気がするので雲のある空の方が好きになりました。

 

 

先月の朝ドラのセリフ

 「こどもを亡くすゆうんは、1年やそこら泣き暮らしてもどないもなりまへんで。

 慣れるのに10年20年、人によっては一生かかります。それは覚悟しといたほうがよろし」

 

 まさにその通り。

この悲しみとは一生つきあう覚悟はしています。

こどもを亡くしたことに慣れたくない、そんな心の抵抗もあるのかもしれません。

 

 

最後にBSのドラマより

 花火大会の宣伝で    お盆の花火は大きな迎え火です

 

 こどもが亡くなる前の晩、一緒に花火をやろうと思ったのに、あの子は早々に寝てしまい花火ができませんでした。まだまだ何度でも一緒にやるチャンスがあると思っていたのに。

 こどもを亡くした翌年の夏、マンションの方々が花火をやろう、と集まっていました。

思わず「うちが花火すると迎え火になっちゃうから」と断り、家にこもっていたこともありました。

 こどもが亡くなる前にどこかの河川敷の花火大会には連れて行ったことがあります。まだ赤ちゃんだったから覚えてはいないでしょうが。

 大切な人を亡くした者にとって、花火が迎え火に思えてしまうのは、よくあることなのかもしれません。だからお盆のころに花火大会が多いのでしょうか。

 

 こんなふうに、ドラマを見ながら、何かのセリフが心に引っかかり、ドラマどころではなくなってしまうこの頃です。

 

(空色)

2014年

3月

29日

事務局にて

先週の金曜日は春分の日で祝日だったので久しぶりの事務局でした
 
引っ越して一ヶ月がたちましたが、「あれはどこ?」が多く探し物ばかりしています。
 
せっかくポットにお湯を沸かしてくれたのに、冷たいお茶が欲しくなるような陽気で桜も2,3日内には満開になりそうです。
 
花に芳香のある匂い桜の代表品種である「駿河台匂」が神田駿河台3丁目に17本植えられており事務所から歩いていけそうなので、今年は是非行きたい!
 
会館に入ってから214号室に来るまでの道順を貼る場所等を会館の担当者と打ち合わせができました。よかった!
会館の中で来てくださる方が迷わないような標識をと思いをこめています。
 
金曜日の事務局

2014年

3月

23日

庭の深雪

6月からの開業に向けて準備中

の白馬村のペンションに行って

きました。まだまだ雪はたくさん

残っていて、この写真は物置の

屋根に積もった雪です。

「ペンションのオーナー(木村さん)は福島県大熊町出身で、大震災の津波のため父、妻、二女を亡くされ、家は全て流されました。

そして原発事故のため、3人を捜しだせないまま、町を離れなければならず・・・」 

反原発運動ではなく、必要以上の電気などのエネルギー消費をしていた生活を見直したワークショップを企画するペンション経営を準備されていらっしゃいます。 

 両親、そして娘二人を持つ木村さんご夫婦の6人家族が半分の3人になり、お母様はまったく知人のいないところで住まうことに自信がないと、今までの住まいから遠く離れた会津の仮設住宅でお一人暮らし。木村さんと長女の中学1年生、雌犬のドーベルマンの「ベル」と小型犬(ミニチュアダックスフンドとチワワのハーフ)の「ミミ」と白馬村で・・・・。 

思春期に入った13歳の娘さんの心の内は分かるはずもないのですが、表面は屈託の無い明るく素直に育っていらして3.11までの家庭がしのばれるお嬢さんでした。

 

朝ご飯の後「アイスクリーム

食べる?」と言ってキッチンに

行き、イチゴをトッピングした

このおしゃれないちごアイスを

出して頂きました。

 

キッチンでのひとりの作業に

調理師でいらしたお母さまと妹さんが、きっと寄り添っていたように感じたのですが如何でしょうか。

 

朱鷺色

 

2014年

3月

18日

亡き人は年をとるのか?

 

今日は、僕の誕生日です。
 
人はこの世に生きている間は、毎年、年を重ね、見た目も変化するでしょう。
 
小さい頃、10代の頃、大学生の頃・・・。
 
しかし、今は亡きその人は、亡くなった日からずっと同じ年齢です。
 
仮に死後の世界があって、自分が向こうにいった時、自分は年齢を重ねてた姿だが、その人は旅立ったその時の容姿なのかな? と考えるかもしれません。
 
その人がもし生きていたのなら、どのような姿なのかと想像するのですが、浮かびません・・・・でも、旅立った時の姿はイメージできます。
 
そんな亡き人の顔をイメージすると、そこには笑顔があります。
 
きっと天国から笑顔で誕生日を祝ってくれていると思います。
 
(緑)

 

2014年

3月

07日

たんぽぽのわたげ

たんぽぽのわたげ

冷たい雨が降る3月。

2月から、体調不良や、トラブル続きで、かなり落ち込みました。

気持ちに余裕がまったくなく、「ほんとに参ったなぁ…」と思いながら、ふーっと息をついて空をあおぎ見たりしています。
なんだか、神様に試されてるなぁ…このごろ(笑)

本当に煮詰まってしまったとき、私はふらりと旅にでることにしています。

いったん問題と距離を置き、遠くからものごとを眺めることで、新しい視点が見えてくるからです。

30代の頃、ひと月ほどイギリスの田舎町を旅して歩きました。

1時間に1本しか来ない電車を待つ駅で、ひとりベンチに座っていると、空にたくさんのたんぽぽのわたげが飛んでいることに気づきました。

 

日本ではあり得ないほどのわたげが、空中にふわり、ふわりと浮遊しています。
手のひらを空に向けると、ふわりと着地するわたげ。

息を吹きかけ、また空へと返しました。

私もこのたんぽぽと一緒かもしれない。
着地する場所(居場所)を探すために、今自由に飛び回っているんだ。

そんなふうに感じていた30代の春です。

 

車窓から眺めた、森に群生する紫色のムスカリの花や、ぴょんぴょん跳ねる茶色い野うさぎたち。

そのひとつひとつは、とてもちっぽけなものですが、役目を精一杯果たしながら生きている。

厳しい冬は必ず終わり、春は必ず巡ってくるのだと自然が教えてくれていました。

 

3月は別名
ゆめみづき(夢見月)

夢を形にかえてくための準備期間。


そろそろ旅に出てみようか。

次の一歩を踏み出す勇気をもらうため。

 

水浅葱

水浅葱おススメ・今日も良い日にしてくれる一曲

『瞳を閉じれば あなたが
まぶたのうらに いることで
どれほど強くなれたでしょう
あなたにとって私も そうでありたい』

 

レミオロメン 3月9日 より

2014年

3月

05日

新事務所への行き方

御茶ノ水の新しい事務所への行き方です。

 

1)JR御茶ノ水駅から楽器店が並ぶ明大通りを下って行き

杏雲堂病院の先、「甲賀通り」を左折するとYWCAの

看板が見えます。車寄せの奥が入り口です。

 ↓

2)正面の大きいガラス扉から入ります。右のオフィス入口

ではありません。1階ホールの右奥に階段が見えます。

階段をあがると喫煙所にもなっている中庭が正面ガラス越し

に広がり開放的な雰囲気です。さらに右手奥の階段を上がり

ます。(ここで直進して左の階段に行きそうになりますが、

後方・右の奥の階段です。)

 ↓

3)階段を上ったら右へ。廊下の途中、左側の214号室が生と死を考える会の事務所です。

 

エレベーターご利用の方は、玄関入って左手にあります。2階で降りたら、左前の狭い円形の通路をぐるりと来ると事務所前の廊下に出ます。左前に214号室があります。

2月24日の夕方から始まった荷物の搬入でしたが、お手伝いに駆けつけてくださった方々のご尽力でその日のうちに大方の段ボールが空きました。

まだ移転に伴う仕事は色々残っていますが、ぼちぼち片付けていきます。

しばらくはご不便をかけることもあるかと思いますが、ご了承ください。

 

この事務所移転の機会に久しぶりに会に顔を出した、という方が

何人もいらっしゃいました。

会を離れていた方々にも、新しい方にも、心の重荷をおろせる

場でありたいと願っています。

新しい事務所でもどうぞよろしくお願い致します。

 

事務局

2014年

2月

28日

誕生日に

今日は息子の誕生日です。

9年前の今日、予定日よりも3週間早く生まれました。

逆子だったので、早めに帝王切開の予約をしていましたが

手術予定日よりも4日早く陣痛が来てしまいました。

お姉ちゃんの幼稚園の学芸会の翌日でしたので学芸会まで

お腹から出ないで待っていてくれて、お姉ちゃん思いの

いい弟だね、と皆で言っていたものです。

緊急手術だったので、主人も母も義母も間に合いませんでした。

生まれたばかりの息子に最初に会ったのは娘でした。

そして、付き添ってくれた友人も、身内じゃないのに、と恐縮しながらも分娩室で息子に会ってくれて、生まれたての赤ちゃんに会うなんてめったにない、孫みたい!?と感動してくれました。

手術予定日は大雪でしたので、本当に周りのことを考えて生まれてきてくれた子でした。

そんなこんなを、「君が生まれてきた時はね・・・」と話してあげる相手はもういません。

生きていたら、笑い話として皆でよく話題にしただろうに、いなくなってしまったら、こんな

エピソードを語るチャンスもありません。

数少ない息子との思い出を語る場を与えて下ったことに感謝いたします。

 

一昨日、トイ××スに息子の誕生日プレゼントを買いに行きました。

3年生の男の子はどんなものが好きなのでしょう?さっぱりわかりません。

店の中をぐるぐる何度もまわり、何とかONE PIECEのプラモデルを買いました。

一緒に選びたかった。

生きてる時にもっと連れてきてあげれば良かった。

色々な思いが頭を駆け巡ります。

このプラモデルは、しばらくしたら娘が組み立てるそうです。

生きていたら、きっと一緒に作ったことと思います。喧嘩しながらだろうけど。

詩人の高階杞一さんの詩です

 

 

「ジョーシン、バンバン、ダイエー」

 

ジョーシン、バンバン、ダイエー

というのがこどもの口癖だった

 

(中略)

 

バンバンはおもちゃの専門店

ジョーシンは大型家電販売店

ダイエーはスーパー

それぞれにおもちゃを並べたコーナーがある

ミニカーが大好きで

どこに行ってもまずそれの置いてある場所へ行く

 

(中略)

 

ジョーシン、バンバン、ダイエー

 

その口癖を思い出しながら

ぼくは

もう誰の目にも見えなくなったこどもを連れて

時折

ジョーシン、バンバン、ダイエーに行く

こどもはすぐにミニカーの方にかけていく

どれがいい?

聞きながら くるまを選び

レジに持っていく

店員には

こどもが家で待っている

みたいな顔をして

 

(詩集「早く家へ帰りたい」高階杞一 夏葉社 より)

 

高階さんの息子さんは4歳で亡くなりました。

うちは2歳でした。電車と動物が大好きでした。

この詩を思い出し、プレゼントは電車の方がよかったかな、とちょっぴり思ったりしました。

 「どれがいい?」

聞いても 私に息子の声は聞こえませんでした。

でも、つい先ほど、このブログを打っている時、玄関のチャイムがなりました。

玄関を開けたけれど、誰もいません。

息子の合図かな、

そう思いました。

 

空色

 

 

2014年

2月

22日

雪の日に

このところ週末ごとの大雪で大変でしたね。

先週14日金曜は朝からの雪でしたので、

昼過ぎに信濃町の事務所に向かう頃、電車は

すでに遅れがでており、お昼で帰宅となった

中高生らがたくさん乗っていました。

 

そんな中「分かち合い」は参加者ほとんど

いないだろうなと思っていましたらさに非ず、

10人もの方が参加されました。

参加者のおひとりの方の

「雪が降って電車が遅れようが、家に帰れなくなろうが、子供を亡くしたことに比べればたいしたことではない」

との発言に妙に納得してしまう皆様でした。

 

1週間たった信濃町の真生会館のまわりにもまだ雪がたくさん残っています。

週明け24日(月)に事務所は引っ越しをします。

引越が決まり、この一か月、本当に大勢の皆様に引越準備のお手伝いをいただきました。

土曜日は分かち合いがあり、日曜日は会館の関係で作業ができず、平日昼間ばかりの作業でしたので女性の方々(平均年齢高め!?)が多く来てくださいました。

家庭で頼れるはずの伴侶やご子息を亡くして、好むと好まざるとを得ず、強くならざるを得なかった皆様のお力、優しさ、お心遣いをいただきました。

ありがとうございました。

 

2月14日にはまだ荷物はこの程度でしたが、今(22日)は段ボールだらけです。

この事務所での最後の分かち合いが今日ありますが、段ボールに囲まれての会になりますこと

ご理解いただけたら幸いです。

 

初めて事務所を訪れた時、大切な人を失った悲しみと絶望に打ちひしがれ、やっとの思いで

ここにたどり着いた方々も多かったことと思います。

そんな我々の思いを包んでくれた真生会館ともお別れです。

3月からは御茶ノ水のYWCA会館214号室で活動開始です。

YWCA会館の入口を入ったら正面の階段をのぼり、さらに右にあがり、廊下を右に進むと

214号室があります。

新しい事務所は少し狭くなりますが、皆様の悲しみに寄り添える場所になれますよう、

事務所を整えていきたいと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

事務局

2014年

2月

15日

事務所移転

蝋梅が咲き、紅梅が咲き、そして白梅と行く道に梅の花が佳いかおりとともに咲いている

うれしい季節です。

梅ノ木に雪が積もり、まるで終わりの花をもう一度満開の姿に見せてくれたようでした。

梅の便りから始まる早春のこの季節にうれしいお知らせを出来ることに感謝です。

 

今までお世話になった真生会館が建て替えになるため移転することになりました。

建て替えのお話があったときは、驚きと、困惑と、心配と・・・と。

理事長をはじめ、理事、スタッフで情報を集めて、探してとの行動は勿論でした。

直接見に行った物件ふたつ目がYMCA会館でした。

 

おかげさまで契約を済ませ2月24日(月)に移転の運びになりました。

 

引越し準備のスタートは書類の整理で大切に保管しておく物、廃棄する物

廃棄する物でもシュレッダーにかける物、資源ごみとしてまとめる物。

書類の見きわめをしていて、そこに出てくるお名前は、全く知らない人、

お名前だけは聞いたことがある人、最近ご無沙汰ですがお人柄もよく知っていて

いろいろな行事をご一緒にした人とたくさんの人がお顔と一緒に蘇ってきました。

 

設立32年を思えば当たり前のことなのですが、あらためてこんなにたくさんの方々が

関わってくださり、心をこめて活動されてきた年月の重みが感じられました。

たったの2軒目でこのように恵まれた出会いのあったことが不思議と言うか、

なにか「おおきなるもの」のめぐみが感じられてなりません。感謝です。

生と死を考える会を紡いできてくださった方々に心からの感謝を

申しあげたい気持ちでいっぱいです。

 

新しい事務所は3月1日の14時から自死遺族の対象の「分かち合いの会」

から始まります。

これからも、会の充実のためにお力をいただきたくよろしくお願いいたします。

 

     新事務所  〒101-0062

    東京都千代田区神田駿河台1-8-11

       東京YWCA会館2階214号室

         電話03-5577-3935 Fax03-5577-3934

2014年

2月

06日

花の思い出

 

実家の庭にある梅の木の蕾が、春を待ちかねたかのように膨らみ始め、可憐なピンクの花を咲かせてくれています。

 

花が大好きだった亡き人は、私が枯らしてしまった花でも、丹精込めて手入れをし、翌年には綺麗に花を咲かせて、私をビックリさせた事がありました。

 

私は、もう無理かなって思うとすぐに諦めてしまうので、どんな花でも命があり、愛情をかければ必ず応えてくれる、と口を酸っぱくして教えてくれたものでした。

 

そんな亡き人が大切にしていた庭は、今では時が止まったまま…。

 

植木だけは手入れをお願いしてきたけれど、亡き人が大事にしていた花までは、気がまわらず…。

 

今さらながら、真似が出来ればいいのになぁ、っとため息を一つ。

 

今だから聞きたいこと、話したいことが山ほどあります。

 

とても同じようには出来ないけれど、せめて亡き人が大切にしていた「思い」だけは、大事に大事に受け継いでいきたいなぁ。

 

(赤)

 

2014年

1月

23日

朝、家を出た時に

こんにちは、緑レンジャーです。

 

さて、今日のお題は「朝、家を出た時に」です。

この題名だけだと、どんな内容が続くのか分からないですよね・・・。

正月休みを過ぎ、僕はいつものように満員電車との格闘です。

 

冬至も過ぎ1月になってから、最近、朝、家を出た瞬間に思うことがあります。

それは「前より、明るくなったな~」ということです。

 

家を出る時間は大体同じ時間で、3月や4月になれば窓から差し込む日の光で起き、今以上に明るいのかと思います。

 

でもこの1月あたりというのは一段と寒さが増すせいか、家を出た時に一番気になるのは寒さですが、それと同時に太陽が出る時間もこうして徐々に早まっていくんだな~と思いました。

 

先日ニュースで成人式やセンター試験の様子が流れ、僕にもそんなことがあったな~と思うと同時に、その頃の自分は、こんな風に家を出るときの明るさは意識していたのかな~と思ったりしました。

 

(緑)

 

 

 

2014年

1月

17日

新しい年のはじまりに

私の2014年のはじまりは多忙を極め、日の出を見る機会も、

神社にお参りに行くこともできませんでした。

 

そこで、寒さに耐えつつ頑張って5時起き。

湘南の日の出を見てきました。

 

じんじんする指先、頬に受ける冷たい空気の中、太陽が昇る瞬間を待ちます。

寒くて、冷たい闇が、黄金色の光に包まれ、太陽で熱をおびてゆく。

からだに感じる温かさ、光の美しさ。

生かされていることへの感謝の気持ちを静かに味わいました。

 

やっと新しい年を迎えられた。

自分の中で区切りがついた瞬間でした。


アイルランド製のやかんで珈琲を入れました。

でも、ホーローカップのあまりの冷たさに、あっという間に急冷された珈琲はアイスに。

ホット珈琲が飲みたかったのに^^;

こんな失敗も楽しい一日です。

共に朝日を見に行った仲間と、生きること、これからの暮らし方、自分たちの目標…etc
珍しく真面目に語った朝のひととき。

 

今日が人世最期の日だと思い、今、自分にできることを精一杯!

出会いや機会を大切に暮らして行こうと思います。

本年も宜しくお願いいたします。

 

水浅葱

 

 

2014年

1月

09日

年賀状

ダイアモンド富士

新しい年が始まりました。

 

初日の出を見に竜ヶ岳という山に登ってきました

富士山頂から日が昇るという

ダイアモンド富士です

 

 今年もたくさんの年賀状をいただきました。家族写真の年賀状もいただきます。

大切な家族を亡くされた方には家族写真の年賀状を貰うのはつらいという方が多く

いらっしゃいます。それが当たり前の感情なのかもしれません。

ところが私はなぜか大丈夫なのです。もちろんお子さんの写真はうらやましくて

しかたがありません。でも同時に亡き息子に思いを馳せる助けにもなるのです。

 赤ちゃんの時に会ったきりのお子さんがこんなに大きくなったのかと思い、

ではうちの息子はどのくらいだろうかと想像がふくらみます。この姉・弟はうちと

同じパターンだ、年の差がうちと同じだからうちもこんな感じだったのだろうか

と思いを馳せます。また、写真でしか知らないご家族の方々とも何となく知り合いの

ような気になり、これもご縁ではないかと思うのです。そして、よその子が大きくなり

年賀状に登場しなくなると、他人事ながらさみしく感じるのです。

 わが息子は2回しか我が家の年賀状に登場できなかったけれど、その年賀状の写真の

おかげで、会ったことのないパパ・ママ・お姉ちゃんの友人にもお見知りおきいただき

この家には男の子さんがいたよね、と頭の片隅に残っているのではないかと密かに

期待するのです。

 一方、自分で出す年賀状は…

 息子の亡くなった年、たった2歳の息子のお知らせを義父や父等が亡くなった時と

同じような地味な喪中通知にはしたくありませんでした。息子の写真をたくさん載せ

思い出を綴ったカードにしました。こんな形で非常識だろうかと心配して葬儀社の開催

したグリーフケアの会でお坊様に伺ったところ、あっさり「構いません」と言われ、

安心して出しました。(さすがに主人の仕事関係は普通の喪中通知を出しましたが)

 さて問題はその翌年以降です。

世間的に我が家は喪はあけていますが、自分の中ではまだずっと喪中です。

「おめでとうございます」とか「賀正」なんて気分ではありません。

年が明けていったい何がめでたいのだろうと、まさに

中原中也の「また来ん春」の心境です

 

 また来ん春と人は云う

 しかし私は辛いのだ

 春が来たって何になる

 あの子が返って来るじゃない

   (後略)

 

 自らおめでたい言葉を文字にすることはとてもとてもできませんでした。

そんな時にこちらの分かち合いの会で良い言い回しを教えていただきました。

 『新年のご挨拶を申し上げます』

「おめでとう」とも「賀」「春」とか見るからにおめでたい言葉は使っていません。

「新年」くらいは許容範囲です。

この言い回しを数年使っていました。

 また、息子をどうにかして年賀状に登場させたいと思い始め、これもこちらの分かち

合いの会でヒントをいただき、息子にゆかりのある物を載せるようになりました。

友人が亡き息子に送ってくれたくまのぬいぐるみ、幼稚園のカバンとスモッグ、

七五三の千歳飴、ランドセル、レゴなどなど。でも年数がたち、この年頃の男の子が

どんな様子なのかわからなくなってきました。息子がどんな風に育ち、どんな物が好き

なのかわからないというのは、全くつらくて情けなくてさみしくなります。

 今回は同じ年の男の子を持つ友人が息子に供えてくれたパズルを登場させました。

子供を亡くした場合は同じ年頃の子供の話を聞くのはつらいことが多いのですが、

私の場合は息子に思いを馳せる手掛かりになるので、場合によりますが大丈夫です。

お参りに来てくれて、私に乞われ初めて三年生の男の子がどんな風なのかを言葉を

選びながら教えてくれた友達はありがたい存在です。

相手の思いやり次第なのかと思います。

 娘も一昨年から年賀状に自分の写真が載るのを嫌がるようになりました。

息子もあと数年すれば嫌がるようになるのでしょう。それまであと数回は息子を

我が家の年賀状に載せたいと思っています。

そして家族の名前の最後には息子の名前が載るだけの空欄を必ず空けておくのです。

(空色)

 

2014年

1月

03日

年頭の墓参

新年のご挨拶を申しあげます。

年末年始の行事が変わってしまって年月がたちました。

年末の30日にはお墓のお掃除と墓石にお飾りをつること。

年始早々「あけまして・・・・・」のご挨拶にお墓参り。

何はさておき優先されます。

今日のお昼ご飯は「あさみ」という小さな食堂で頂きました。

以前義姉にアジフライが美味しいと連れて行ってもらったお店です。

二人でしたが「アジフライ定食」と「鯵のたたき定食」をとり

「さんが」と「あおりイカのお刺身」をプラスしました。

お店の雰囲気と「あさみ」と言う店名が気になって「めずらしいお店の名前ですね」

と言ってみると「亡くなった姉の名前です」とのこと。

なんとなくお嬢さんの名前かな?と思っていたことがあたりました。

70歳前後の揚げ物等担当のご主人のお嬢さん、

お刺身等を担当されているあさみさんの弟さん、亡くなったあさみさんと一緒に

お仕事されているようで、私はなんだかうれしかったです。

 

帰り道の景色は懐かしい気持ちになる田畑のなかを通ってきました。

なくなった人を何時までもそばに感じていられることに感謝。

                   朱鷺色