ペット(家族)とのお別れ。

緑レンジャーです!!
先週のひまわりの会で「若者たちが語る生と死」について皆さんと話をしました。
その際、若者が生と死について考える機会としては、メディア、デス・エデュケーション、そして近親者の死、ペットの死などが挙げられるかもしれません。

そこで、今回は「ペット(家族)とのお別れ」について書こうと思います。

僕は近親者を亡くしていますが、それと同時に、大好きなペットを亡くしたことがあります。
そして、僕にとってペットの死は、「家族の死」です。動物と一緒に生活している人にとっては、ペットという枠というようりは、まさに「家族の死」なのではないでしょうか。
 
僕は、大学時代一人暮らしをしていた時、「プレーリードック(リスを大きくしたような動物)」を飼っていました。
プレーリードックは、野生で家族とくっ付いて寝る習性があり、その子は、僕と同じ布団の中で寝ていました。
なので、寝る前までは、僕の太ももの間に入り込んだり、朝、起きると足元で寝ていたりと・・・。
 
そして、その寝起きはまさに人間と一緒です。
お腹を上に向け寝ているではないですか?!
お腹をコチョコチョと触ると、まだ眠いと言わんばかりに、布団の下の方へと下がるのです(完全に二度寝の常習犯でした)。

そんな愛くるしい子が亡くなった時、僕はその子との見えない絆を体感したように思います。
それは、その子が亡くなった夜、最後に一緒に寝ようと思い、その子を抱えて二階に上がった時、
 
僕は初めて知りました・・・。その子が「こんなに重いんだ」ということを。
 
それは今まで抱き抱えた時には感じたことのない重さでした。

生きている時は、その子はただ単に僕の腕の上に抱かれていたのではなく、その子は僕に身を任せていたということだったんですね。そこには目に見えない信頼、愛、絆があったのかもしれません。
家で飼っている動物は、確かに人間がご飯をあげなくては生きられません。
でも、それはまさしく人間の勘違いなのかもしれません。
 
僕がこの子にどれだけの安らぎをもらっていたか・・・・。
そして、僕がこの子を生かしていたのではなく、僕がこの子に生かされていたということ・・・それが真実のように思います。
 
なぜ今回、僕が「ペットとのお別れ」について書いたのか?・・・・それは、ひまわりの会で語ったテーマの1つだったこと・・・。それだけではないかもしれません。
この子は僕一人で飼っていたので、この子の死を語る機会はほとんどありません。
だからこそ、僕の中で、この子が生きていた証を記録として残したいと思ったのかもしれません。
 
僕はこの子のことは忘れません。
 
だから、まだだいぶ先かもしれないけど、僕が天国に行ったときには、また一緒に布団で寝ようね、らいちゃん。   
 
 
(緑)