2011年

2月

13日

だからこそ。

私は仕事柄、

病気を抱えてターミナル期を迎えている患者さんやご家族の方と日々遭遇します。

 

自分がグリーフワークを体験したからといって、

そのような方々に、ステージは違えど、

ちゃんとしたことを見据えたり、

アドバイスしたり、共感できるかと言うと決してそんなことはありません。

 

事の理不尽さに対する怒りだったり、

死に向かう孤独感だったり、

大切な人をこれから失おうとする深い深い悲しみだったり、

そういったものに、

ただ、

ただ、

圧倒されるだけ。

 

その言葉を失う中で、ほんのちょっとでも自分が職業人として、手伝えることを探していく。

そんなかんじなのです。

 

 

体験したからといって、

個人個人の思いや価値観や大切なものはそれぞれ違う。

わかったような口をきいてほしくないし、

誰ひとりとして自分のことも、相手のことも、

理解できないと思う。

そう考えると自分自身、ずっとずっと、長い間、誰も信じられず孤独だけで生きてきたのだと思う。

私の死別の年齢(12歳)で、周囲に理解してくれる人は皆無だった。

理解してくれようとした人が数人いたことが、唯一の救いだった。

でも私のペースに合わせずに、

自分勝手に理解してくれているつもりになっている、大人達が大嫌いだった。

 

 

だからこそ、

 

グリーフワークを体験しようとしている、体験している、

目の前の人を、

理解できないからこそ、

理解したいと思う。



そう、

私は理解できないくせに!

と周りに怒りながらも、

ずっとずっと純粋に理解してくれようとする人を探していたから。

 

そう、
その人の個別性は理解できなくても、

その悲しみや苦しみと共に生きている目の前の人が、

自分のように愛おしく感じるから。



だからこそ。

だからこそ。

 

(ピンク)